百歳の方の生き方


さずがはプロです。細かい壁面の工事がドンドンはかどります。梁と柱をアールの付いた腕で補強したのもご覧下さい。 
                               ・

                                              主を畏れ、ひれ伏せ (下)
                                              マタイ21章18-22節



                              (3)
  目下、リフォーム工事はどんどん進んで、先週は頑丈な鉄骨の筋交いが2箇所にはめ込まれましたし、鉄骨の柱と鉄骨の太い梁が熔接されたりボルトでつながれました。木部の工事も進みつつあって、今週頃には壁も出来て中が見えなくなります。

  私たちのリフォームを短く振り返って見ますと、最初Aさんから見積もりを取った時、ほんの僅かな工事を予想していました。教会の基礎の改良だけです。B万円の見積もりでした。

  それが牧師館の補強も考えるようになってC万円ほどになりました。それが私たちの希望が膨らんでD万円ほどになり、やがて会堂の幅を30cmずつ横に広げて、建物を2階と一体化する見積もりにしてもらってE万円になりました。それが更に天井の張替えや台所の改良に発展してF万円になったのです。教会は少しも発注しないで、見積もりだけがドンドン、エスカレートするので、Aさんは、「本当に工事をするんですか。本当にお金があるんですか」と思ったと、後に言っていました。何しろB万円がF万円になったのですから。

  さもありなん。実際その頃教会は、何も資金の裏付けがなく役員会が見積もりだけを出してもらおうとして、間に立つ私は実に頼みづらい時期でした。その頃は、建築と言っても荒唐無稽な夢物語だったと思います。教会の財布の中身を知っていれば、見積もりなど出してくれなかったかも知れませんネ。

  だが、やがて役員だけの献金アンケートを行ない、次に教会員全員の献金アンケートを行ない、更に新築かリフォームかのアンケート調査を行い、遂に新築案を捨てリフォームを行なう決定を行い、教会総会を開いて決議し、次いで献金申込みをして頂く中でG万円ほどが見込まれることが分かったのです。ですから、これまで貯金した建築資金と合わせるとH万円ほどの工事ができることが分かりました。ここまで来るのに実にしんどかったと思います。

  それから、外部献金を依頼すればある程度の献金が寄せられるかも知れないというので、Aさんに、台所を拡張したりシステムキッチンを入れたり、土台を万全に補強するものにグレードアップしたり、ステンドグラスを入れる見積もりを取ったりしましたので、I万円程度に膨らんだのです。J万円の大台になったのです。

  その内に、机上の計算ですが全国募金やその他の募金も推計して、合計でK万円まで予算化できる見通しが立って来ました。すると、万全なリフォームにしたいという希望が強く出て、L建築設計事務所のMさんにもN万円の見積もりで加わって頂くことになりました。

  そこで予算一杯まで、役員会が更に改良箇所を出して見積もりを取りましたら、Aさんだけで何とO万円に膨らんでしまい、私たちはアップアップしてギブアップになりました。すぐさま撤退してP万円まで落として、ホッと一息、身分相応になって、これで契約しました。それでも総予算はQ万円になりました。

  最初B万円で始まった話しが、今9倍近い総予算です。あるかなきかの存在、風が吹けば飛んで、どこかに行って分からなくなるほどだったものが、今では現実的な経済力をつけて建築がなされています。最近の試算では、最終的には10倍近いものになるかも知れません。

  初めは淀みに浮かぶ、うたかたでした。浮かんでは消え、消えては且つ浮かんで、殆ど現実性がないのに、見積もりだけ出して頂いてAさんにご迷惑だけかける話でした。

  ですからここまで来たのは、ほんとに驚きです。皆さん驚いて下さい。腰を抜かさんばかりに驚いて下さい。実に驚くべきことがここで目の前で起っているんです。目を覚ましてご覧下さい。私たちの目の前で、夢物語が、不可能が可能となってしまったのです。イチジクが枯れたり、山が海に移ったりというのと同じ、実に荒唐無稽な話が現実に実現してしまったのです。

  私たちの能力をはるかに越えた献金が寄せられたのです。総予算の3分の1、いやそれ以上の献金が教会員以外から寄せられそうだというのは常識ではあり得ません。ぼろ儲け!そんな無防備な言葉を吐いちゃあいけません。が、実現しつつあるのです。

  私たちはからし種一粒ほどの信仰しか持ち合わせていませんが、巨大な献金が大波となって打ち寄せ、山が動いたのです。現在団体で下さった方々も合わせると200人を越える方が献金を寄せて下さっています。まさに山が動き、海の中に移った。恐らく私は、この神の恵みのみ業を死の床まで語りついで行くと思います。

  「からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向って、ここからあそこに移れと命じても、そのとおりになる。」青年時代にバカにした信仰が、私の最後の実りになるかも知れません。神のなさることは実に不思議で、その時にかなって美しいとはこのことです。神はこれらを通して、私たちに永遠を思う思いを授けられたのだと思います。

  妻はこのことに、「人は何者なので御心を留められるのですか。人の子は何者なので顧みられるのですか」という言葉を思い出すと言っています。私も同感です。

  一人の方を紹介しましょう。献金を寄せて下さった知り合いの方の中に、ケアホームに入居している方があります。この方も決して豊かではありません。しかも驚いて下さい。今年丁度百歳の方です。この方は30年前の知り合いですが、手紙を添えて献金を届けて下さいました。

  「百歳になります。…礼拝には出席できませんが、教会の多くの方々に支えられながら、朝毎の祈りの座についております。…ここは90人の方々と一緒の老人ホームです。開所してから15年。だんだん認知症、足腰の弱りも目立ちます。その方々との交わりを今は召命として主に支えられながら祈り求め、信仰の道を歩んでおります。」

  百歳の方が認知症や体力の弱りの目立つ方々との交わりを「神様からの召命」と受けとめて過しておられるという、宝物のようなお手紙まで添えて献金くださった。これはリフォームの中で授けられた宝物です。

  私たちが頂戴したものは、すべて信仰の献げものです。余ったものからの献げものではありません。むろん私たちも余裕のある中からお献げしていません。

  結論を申しますと、私はリフォーム献金や募金を通して、山が海に移るという事を目の前に現実に見て、「主の御前に畏れてひれ伏せ」という信仰に導かれました。

  一粒のからし種のような信仰といいますが、本当は私たちに何も誇るべき信仰はありません。誇れるような、一粒のからし種の信仰さえ持っていません。だが、私たちのキリストは、「主を畏れひれ伏せ。主の御前に畏れてぬかづけ」という信仰を、イチジクの木の出来事を通して弟子たちに教えられた信仰を、今大山教会に属する私たちにも教えられたのです。これは大山教会の歴史における大きな収穫でした。これを感謝したいと思います。

  皆さん、いっつも神に請求書を差し出していちゃあなりません。そういう信仰の姿勢から、神に感謝の領収書をお出しする信仰をめざしましょう。

  百歳になるこの方がしておられるのは、そういう感謝の領収書を出す信仰です。それが私たちへの献金となっても表わされたのではないでしょうか。

  パウロが、「山を移すほどの強い信仰があっても、愛がなければ無に等しい」と語ったことに耳を傾けるべきでしょう。信仰の強さ、大きさを誇るより、主を畏れ、隣人を愛し、隣人に仕える信仰へと進みたいと思います。この百歳の姉妹はそれを行なっておられるのです。

          (完)

                                          2010年12月5日

                                       板橋大山教会   上垣 勝


       ・ホームページはこちらです;http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/ 

       ・板橋大山教会への道順は、下のホームページをごらん下さい。
                   http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/