山が海に移るなんてバカな…



・壁の外側に8ミリのボードが張られました。ここに10cmのグラスウールがはめ込まれます。 ・下はガスストーブ用の配管をするため基礎の木部に穴があけられました。工事は一つ一つ理に適って行なわれます。
                               ・

                                              主を畏れ、ひれ伏せ (上)
                                              マタイ21章18-22節

                              (1)
  18節を見ますと、イエスエルサレム入城をなさった翌日、「朝早く、再びエルサレムに帰る途中、空腹を覚えられた」とあります。「空腹を覚えられた」と言うのですから、朝食を取らずエルサレムに帰って来られたのでしょう。

  それでイチジクの木をご覧になって近寄られたが、「葉の他は何もなかった」のです。そこでイエスは、「今から後、いつまでもお前には実がならないように」と言われると、「木はたちまち枯れてしまった」と言うのです。

  この箇所を目にして、イチジクにとっては運悪く実をつける時期でなかっただけなのに、イエスの虫の居所が悪く、その逆鱗に触れて枯れてしまったような印象を受ける人もあるでしょう。この段落の見出しは「イチジクの木を呪う」とありますし、マルコ伝には「呪う」という言葉が出ていますから、実がないので、空腹で不機嫌になったイエスの呪いを受けて枯れてかのような感じがします。

  イチジクは日本には寛永年間、江戸時代初期に渡来しましたが、日本では年に1度しか実をつけません。しかしイスラエルでは、初夏と秋と年に2度実がなります。死海の西のエンゲデ地方では四季を通じて実を結びます。オリブ山はそこからそれ程遠くないのでそんなイチジクがあったかも知れません。

  そうすると、イエスがご覧になった時に実がなかったことの方が珍しかったとも言えます。

  ところでイチジクはイスラエルの象徴です。ですから、時が満ちて、キリストが地上に来て福音を宣べ伝え、神の国が近づたのに、いまだイスラエルは信仰の実を実らせない。神に反抗している。そのことへの警告として、イスラエル自体を滅ぼすのでなく、象徴であるイチジクの方を枯らされた。それを枯らすことによって、イスラエルに警告をされたと言っていいでしょう。

  イエスが感情的にイチジクを呪ったり、叱って枯らしたのでなく、何千年も実のならないイスラエルの代わりに、イチジクを枯らされた。ですから、ここにはイエスの憐れみ深さが隠された宝のようにひそかに埋め込まれていると言えます。

  むろんこの箇所を私たちにひきつけて、イチジクを枯らされたのは、実のならない私たち、貧弱な実しかない自分への警告として、私たちを滅ぼさないで代わりにイチジクを枯らされたと見ることもできるでしょう。このイチジクを見て己が信仰について悟れということです。

                              (2)
  さて、弟子たちはたちまち枯れてしまったイチジクを見て「驚いた」とあります。これは、「ものも言えないほどの驚き」を意味しています。腰も抜かさんばかりに、本当に驚いたのです。そして暫くして我に返った時、「なぜたちまち枯れたのですか」と問うた。

  するとイエスは、「はっきり言っておく。あなた方も信仰を持ち、疑わないならば、イチジクの木に起こったようなことが出来るばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言ってもその通りになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」と言われたのです。

  ここでイエスが力説しておられるのは、神を疑わぬ信仰。全幅の信頼を置いた信仰です。それと同時に疑いを持たぬ、信頼を置いた祈りのことも強調しておられます。


  ただ不思議なことに、少し前の17章20節を見ますと、「はっきり言っておく。もしからし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向って、『ここからあそこに移れ』と命じても、その通りになる」と述べておられます。

  17章では、山を移すほどの巨大な信仰を求められるのでなく、ましてや巨大な信仰を持っているかのように装うのでなく、単純に神を信じる。からし種一粒ほどの信仰が言われていると言っていいでしょう。山が移るには、からし種ほどの小さな小さな信仰があれば十分だとおっしゃっているのです。

  今日の箇所もそう読めないわけでありません。

  実際にからし種をご覧になれば、その極めて小さい小ささに驚くでしょう。タンポポの綿毛より軽い、綿毛の先ほどの軽さに驚嘆し、誤って落とせば2度と見つけることはできないその微小さに驚かれるに違いありません。まさに吹けば飛ぶ存在の軽さです。

  イエスは、そのような小さい、ささやかな、目に見えぬほどの信仰であっても、あれば山は動く、山は移るとおっしゃるのです。

  実際、からし種はいかにも小さい種ですが、育つと4、5mまで成長し、13章でイエスが語っておられますが、大きく枝を伸ばして小鳥たちがやって来て巣を作るほどになります。

  野菜の中で一番小さい種と言われますが、これほど大きな木に成長するのは、むろん、種に命があるからです。からし種を蒔く人は、内に命が宿っているのを知っているから播くのです。その芽は実に弱々しい、ひねり潰されればひとたまりもありません。

  信仰も同様です。外見ではありません。極めて小さくていい。吹けば飛ぶが如き信仰でいい。ただ誰よりも小さい信仰であっていいが、そこに小さくても命があること。神様との関係で真実であり、神への信頼が生きて脈打っていくことです。

  すると、山が動き、山が海に移るとさえイエスは言われるのです。

  私は青年時代、このような突拍子もないことを言うクリスチャンをバカにしました。その言葉は甚だ疑問でした。荒唐無稽とはこのことであり、鼻であしらい、軽蔑しました。イエスにはできても私たちに出来る筈がありません。実におめでたい人たちだと思いました。そういう人だったのでないかと思います。実際その何人かは教会を離れました。

  だが今の私は、イエスはこれらを語って、だから「主を畏れ、主にひれ伏せ」、「主を畏れ、ただ主をのみ拝せよ」と言おうとされたのでないかと思います。

  20節で、弟子たちがイチジクの木がたちまち枯れたのを見て、腰を抜かさんばかりに驚いたとあるのは、彼らがイエス・キリストの権威、人の力を越えた、み力の偉大さに接して、「主を畏れ、主の前にひれ伏し、主を拝した」という事を示唆しているのでないかと思うからです。

           (つづく)

                                           2010年12月5日


                                       板橋大山教会   上垣 勝


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