重荷の中にも宝が隠されている


こんなものを頭に半世紀過しました。今日天井を開けて分かりました。アスベストの兄弟分のグラスウールです。



                                              キリストに結ばれて歩む (中)
                                              2010年11月21日
                            

                              (2)
  むろん信仰の事柄を建築のたとえで十分表現することはできません。信仰は、キリストと私たちとの人格的な関係だからです。それはキリストと私たちの、「我と汝」の人格関係ですから、私たちの存在の一番奥深い所までキリストは入って来て、私たちを強い交わりの中に引き入れて結びつけてくださるものです。

  ですから、ヨハネ福音書9章の生まれつき目が見えなかった男は、目が見えないのは自分の罪でも両親の罪でもなく、神の栄光が現われるためであるとイエスから聞かされて、シロアムの池で目を洗って、見えるようになって帰って来ます。

  彼はこれをイエスとの人格関係の中で、内面の一番奥深い所で受け止めますから、彼は「お前の目はどのようにして開いたのか」とユダヤ人から問われて、「イエスという方が…」と果敢に答えますし、「あの方は預言者です」とファリサイ人の前で勇敢に証しします。更にユダヤ社会から追放されても、「主よ、信じます」とイエスへの信仰をはっきりと表明していきます。

  「冬の小鳥」を岩波ホールに見に行きました。涙は流れなかったわって言う方もあるようですが、私はチラシ通り最初頃から流れっぱなしでした。涙は流れていいと思いましたから、遠慮なく泣いて来ました。

  ただ信仰は必ずしも涙や感動を必要とするものでありません。感動はあるに越したことはありませんが、なくてもいいのです。先程言いましたように、信仰は生きる根拠であり、根本であり、根底です。この根底が与えられると十字架を負う力が授けられます。果敢にイエスを証しする力も与えられます。

  重荷を負うことの中にも恵みがあります。神は重荷の中にも宝を置くという不思議な摂理を与えられる方です。

  伝説的人物ですが、1700年程前のローマ帝国時代にクリストフォロスという人がいました。クリストフォロスとはギリシャ語ですが、「キリストを負う者、担う者」という意味です。

  彼の元の名はレプロブスだったと言われています。キリスト教に改宗し、イエスに親しく仕えるために人々に奉仕することを勧められ、流れの急な大きな川でそこを渡る人々を助け始めました。彼は川を渡ろうとする人々の渡し守になって、無償で尽くし始めたのです。

  ある日、小さい男の子がやって来て川を渡りたいと言ったのです。あまりに小さかったのでお安い御用と引き受けたが、渡るうちに男の子は異様な重さになり、レプロブスは倒れんばかりになった。あまりの重さに、この子はただ者でないと気づいてその名を尋ねると、男の子は自分はイエス・キリストだと明かしたというのです。

  なぜこんなに重いのですかと聞きますと、全世界の人々の罪を背負っているからという答えです。更に、私が重くなったのはあなたが激流に流されないためだったと答えたというのです。やがて川を渡り切ると、イエスはレプロブスを祝福し、今後は「キリストを背負う者」という意味の「クリストフォロス」を名乗るよう命じ、彼は喜んでそれに従ったのです。

  クリストフォロスはキリストを負うこと、更には神がお授け下さる重荷を背負うことの中に数知れぬ恵みがあることを証ししたのです。

  生まれつき目が見えなかった彼も、キリストを指し示すことで迫害を受けますが、迫害の中で数知れぬ恵みに与って行きました。人格関係というのは人間をそういう風に変えて生きます。聖書に彼のことが記されることによってどれほど多くの障碍を持つ人が生きる意味を発見し、自分の障碍を勇気をもって担って行ったか。まさに彼を通して神の栄光が表わされました。

          (つづく)


                                       板橋大山教会   上垣 勝

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