聖書の行間を読みました


 冬が駆け足で近づいています。カサカサと落ち葉を踏んで歩いていると、なぜか足元から元気が出てきました。


                                              狂人の救い (下)
                                              マルコ5章1-20節


                              (2)
  さて今日の箇所ですが、イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と命じられると、霊どもは自分たちを「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と頼んだのでお許しになると、「汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると2000匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々と溺れ死んだ」とあります。

  一人の人間に取りついた悪霊は、2000匹の豚に乗り移り、それらを容易に殺す力を持っていたということです。人間の魂はそれほど大きく、偉大で、且つ複雑であり、豚と比べ悪霊に対して抵抗力もあり、その価値も高いということでしょうか。

  先週の豚の卸(おろし)売り価格を調べました。すると卸では上等の豚はキロ453円でした。並みの豚は352円です。私の所は352円の方を頂いています。豚の体重は100キロほどのものもありますが大型は200キロです。そうだとすると一匹9万円ほどになります。でも2000匹ですから1億8000万円に相当します。

  それだけの豚が一斉に断崖からガリラヤ湖になだれ込んで溺れ死んでしまった。それで、この出来事を見た「豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた」のです。

  彼らは豚を飼っていた労働者で所有者は別だったのかも知れません。今の日本の夏場の牛の放牧などはそういうシステムです。

  人々が見に来ると、「レギオンに取りつかれていた男が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。」

  不思議です。人々は喜んだのではありません。イエスに感謝したのではありません。「恐ろしくなった」のです。悪霊を追い出す力をお持ちのイエスに恐れを抱いたのでしょうか。男に取りついた悪霊が、一挙に2000匹もの豚の大群を溺死させるほど強力であると知って、非常に恐れたのでしょうか。

  「そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言い出した」のです。

  一人の人間が救われるよりも、1億8000万円の豚が失われることの方が重要だったのです。もしイエスが他にも悪霊に取りつかれた人を癒したら、更に莫大な損失をこうむることになる。そんなことは到底許せない。経済優先の人たちは、人間が救われるよりも豚を守ることを優先した。でも私たちだって迷います。迷いません?救済よりも経営や営利が重視された。ここにはそういう人間社会の偽らぬナマの姿があります。

  聖書は人間を理想化していません。現実のナマの姿を書き留めています。聖書の行間を読んでいくとそういうことを教えられます。

  一体、人間より豚を大事にする社会というのは、汚れた霊に取り付かれているのかも知れません。即ち欲深い、汚れたカネの霊に取りつかれている。そういえば現代社会は昼も夜もブンブン大きな叫び声を上げて活動しています。この騒音は単に機械音でなく、悪霊に乗り移られて叫んでいる声かも知れませんね。

  話しが横道に逸(そ)れましたが、イエスは一人の人間を救い出すために、豚2000匹であろうと1億8千万円であろうと犠牲にしていかれる。それを損失とは見なされないと、今日の聖書は語っていると言っていいでしょう。

  それだけでなく、イエスはご自分を十字架につけても、それを損失と見なされないのです。私たち罪人が救われさえすればそれでいいとされる。神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思われないのです。ご自分には厳しく、私たちには甘くです。「私の目にあなたは価高く、貴い」とイザヤ書は語っています。イエスはそこまで私たち罪を負った人間を貴く、大切にご覧になって、ご自分の血で贖われるのです。

  ドイツにベーテルという社会福祉の町があります。130年前にボーデルシュヴィング牧師親子が創り、世界の福祉施設のモデルになって来ました。町全体がハンディを持つ人たちと共に生きて来て、ナチス安楽死政策に屈せず障害者を守り、愛と信念を貫きました。

  ある日本人が訪問して、シーツが真っ白で部屋に臭いがないのが印象に残ったので、施設長に聞きますと、「福祉の仕事は、合理主義の世界ではない。統計や数字では表せない世界があることが大切だ」と語って、「カネがあるから仕事が出来るのではなく、ハートのある仕事をするので金が入ってくる」と語っていたと書いていました。

  1億8千万円を優先するのか、一人の人間を優先するのか。2000年前のイエスは既に一人の人間を優先しておられたわけですが、では一人の人間を優先するとはどういうことか、その具体的なあり方をこの施設長さんは語っていると思います。

  それにしても、異邦人のこの男がイエスを知っていたとは思えません。ですから、墓場や山で叫びながら、知らずしてキリストに救いを求めていたのでしょうか。知らずしてキリストに救いを求める人たち。イエスはそういう人にも出会って下さる。それがここに書かれていることでしょう。

  先週申しましたように、どれだけ魂が悪霊の圧倒的な力で占領されていようと、イエスの救いはその人にまで届きます。信仰はスーパーマンのように血の出るような懸命な努力をすることではありません。ただ心砕かれて、神とキリストの前に謙(へりくだ)ることだけです。スーパーマンのように強くなるのでなく、むしろ先手を打って働いて下さるキリストの恵みに委ね、それを受け入れることです。神のみ手にすっかり委ねる。たとえレギオンに支配されていようと、支配されている自分を神に委ねる。その時、新しい歩みが神の方から拓かれて来ます。神が道を拓いて下さるんです。

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  「出て行ってもらいたい」と強く要求するゲラサの人たちの言葉を聞いて、イエスは再び舟に乗り弟子たちとカファルナウムに帰ろうとされました。すると悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願い出ました。

  だがイエスは許さず、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにして下さったことをことごとく知らせなさい」と語られたので、彼は「イエスがして下さったことを、ことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた」とあります。

  ゲラサの狂人はイエスによって「癒された」狂人として、伝道者の伝道というより、信徒伝道者の模範を示したと言ってもいいでしょう。彼はそういう新しい道を開拓していった。

  今や墓場や山で声を上げるのでなく、町や村、自分の故郷であるゲラサ地方一帯で声をあげて言い広め始めたのです。12弟子のようにイエスにつき従うことも一つの道ですが、家族の元に帰って、そこでイエスの恵みを証しすることはそれに劣らず大切な業です。近所や仲間たち、また仕事仲間にそのことが出来たら更に素晴らしいでしょう。

  家族や身近な者は皆私たちの生活を見ています。ですから言葉で証しするのでなく、イエスがどう変えてくださったか、その事実で証しする。生活の中で証しする。そういう大切な道を彼は切り拓いて行きました。しかも私たち日本のキリスト者と同じように、異教社会の中でキリストの恵みを証しする業を始めたのです。


                                        2010年11月14日


                                       板橋大山教会   上垣 勝

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