ゲラサの狂人


   リフォーム(4) 床下を掘ってみたらガス管はボロボロ。危ない所でガス漏れを免れました。

                                              ゲラサの狂人 (上)
                                              マルコ5章1-20節


                              (序)
  先週は礼拝堂を潰して不安定な格好の2階だけになり、今が一番危険な状態なのに地震もありました。ほうほうの体で牧師館を逃げ出し、だいぶ前まで私たちの教会員であったAさんが安く用意してくださった上板橋のアパートに移りました。

  お陰さまで前に公園があり、2階の窓まで木の枝が張り出していて、小鳥たちが枝から枝に飛び移るのが見えます。板橋に来て始めて生きた心地がしたという方があります。金曜日に4人の方が弁当持ちで引っ越し手伝いに来てくれましたが、片づけと昼食が終ると、窓に向って揺り椅子に座ったBさんが幼な子の様にいつの間にか気持ちよく寝込んでおられました。眠くなるほどのいい環境です。近くに大きな城北公園も控えています。周りに点々と洒落たお屋敷もあり、面でなく点ですが、人間が急に上等になったような気分になって、愚か者の浅ましさを見せ付けられています。あまり長くいると大山に戻って来れないということになりかねません。

                              (1)
  さて、イエス様とお弟子の一行はガリラヤ湖を東に小舟で渡って「ゲラサ人の地方に着いた」とありました。ゲラサは異邦人の地方です。ユダヤ人から見れば神の恵みの届かない暗黒の地です。たとえ届いても一方的な裁きの対象でしかない救いなき人たちの地です。

  だがイエスはそこに赴き、日夜、墓場や山に出て大声で叫んでいるゲラサの狂人を救いに行かれました。まさに「異邦人の地に光が差し込んだ」のです。彼は親からも、共同体からも捨てられ、顧みられなくなっていた哀れな人物であったと思われます。

  彼は墓場に住んで野ねずみなどの野生動物や木の実や草を食べ、時々墓に供えられる供物を盗んで飢えを凌いでいたのでしょう。

  「墓を住いとしており」と言いますが、社会から見放され、自分も世を見捨て、虚無的なニヒルな思いの中で直感的に自分は死者の世界に属している、死こそわが親しき友と自らをいじめて墓場に身を置いたのでしょうか。

  慰めなき状態の中で、何者かに訴えるかのように「昼も夜も墓場や山で叫」び廻っていた。自分を墓場に追いやりつつまだまだ死ねない状態です。私は彼の姿に胸締めつけられます。

  誰かがお墓参りすると、着物はボロボロになり、髪は長く振り乱し、髭はぼうぼうの男が墓場を我が物顔で獣のように歩き回っている。ふと後ろを振り向くと、そばに目をむいて仁王立ちになっている男がいて肝を潰すこともある。町の人たちは怖くて安心して墓参りできない。で、鎖で縛り足枷(あしかせ)をはめるが、それを引きちぎってしまう。それで、「誰も彼を縛っておくことができなかった」のです。

  こうして5節にあるように、「彼は、昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分の体を打ち叩いたりしていた」のです。

  いわゆる自傷行為です。自傷行為には、例えば、よく報道されるようにカミソリで手や体に傷つけることもありますが、自分の手足を噛み切る行為などもあります。時には血管さえ噛み切ります。彼の場合、墓場に身を置くこと自体が既に自傷行為ですが、それでも足りないのか、叫んだり石で体を叩いたりしたのです。

                              (2)
  私たちは彼の心の襞(ひだ)に完全に分け入ることは不可能ですが、もしかすると彼は自分自身を赦せず、自分を否定し傷つけなければなければ気がすまない何かの必然があったのでしょう。社会が要求する「こうあるべきだ」という掟(おきて)の重圧に耐え切れなかったのかも知れませんし、自分への要求水準が余りに高くて、気位が高いが自分の実情がそれから余りに離れている。そのもどかしさが、自分への激しい怒りとなって現れていたのかも知れません。

  あるいは、人と十分コミニケーションが取れないことへの自罰的な行為でしょうか。いや、もっと表現できない自己の人生の不条理に対する怒り、哀しみ、訴え、呪い、暴発の行為でしょうか。

  私たちは幼い時から、誰しも誰かに耳傾けてもらうことを必要としています。即ち愛されることを必要としています。耳を傾けてもらえないことがどんなことを意味するかを誰もがよく理解しています。

  イエス様は、私たちの心の最も深い襞にあるものまで耳傾けてくださる方であられました。言葉にならない思いの底まで耳傾けられました。詩篇139篇に、「主よ、あなたは私を究め、私を知っておられる。…私の舌がまだ一言も語らぬ先に、…あなたは全てを知っておられる」とある通りです。イエスにそれがお出来なのは、最も深い愛、汲み尽くすことのできない程の真実な赦しの愛、十字架による贖罪愛をお持ちであるからです。

  イエスは人生に絶望し、自罰的な行為をしている彼を救い出すために嵐を押してゲラサの地に行かれたのですが、ゲラサだけでなく私たちがいるどんな地へもおいで下さるでしょう。

  この狂人は、マタイ福音書を見ると、「非常に狂暴で誰もその辺りを通れない」と書いています。今年はあちこちで熊の出没が多く人が襲われていますが、彼は通行人を襲うこともあったのでしょう。

  現代なら、精神病院の閉鎖病棟に入れられる人かも知れません。しかしそこまで行かなくても、実に狂暴な言葉で言い返してくる人たちがいます。1を言ったら10を返して来るので何も言えなくなっちまいます。サラリーマンたちは週末に酒場で時々大声を上げて叫んでいます。外では叫ばないのに、家に帰ると叫んでいる人もあるでしょう。私たちも絶叫したり、したくなることがあるでしょう。無言だが、心の中で声をからして叫びまくっている人もある。その思いが詩や小説を書かしたり、音楽活動に向わせたりすることもあります。しかしまた不登校や引き籠り、出勤拒否となって、部屋から出て来れない子どもや大人が全国で何万人もいるのです。その魂は今日も、今この時も叫んでいるでしょう。

  イエス様がゲラサの狂人を救いに行かれたということは、神の愛が、彼において正しく受け止められていないということを知っておられたからでしょう。神が間違って考えられている。そのためその魂に平和がない。自分自身を平和をもって愛すことが出来ない。自分と和解できず、自分の未来が見えて来ない。それで自分に腹を立て、焦り、人に当たり、自分を傷つけ、自分自身を疎外して、当然、他者とうまく行かない。

  関東のどこか地中深く地震のマグマが溜まっているのかも知れません。金曜日は比較的大きな揺れがあって、教会はどうなったかと昨日自転車を飛ばして見に来ました。でも、家の中で巨大なマグマが溜まっている場合がありはしないでしょうか。愚かな私などは、大爆発が起らない先に時々小爆発して、ガス抜きしている始末です。

           (つづく)

                                          2010年11月7日


                                       板橋大山教会   上垣 勝

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