泥を吐き出すと軽くなる
リフォーム(5) 床下は全面にコンクリートを打ちました。
ゲラサの狂人 (下)
マルコ5章1-20節
(3)
さて、イエスが舟から降りて墓場に向われると、まだ遠くにいるのに彼は走り寄って来て、大声で、「いと高き神の子イエス。かまわないでくれ。後生だから苦しめないでくれ」と叫んだというのです。
「苦しめないでくれ」と言うのなら逃げればいい筈なのに、逃げずにむしろ近づいて行った。イエスが来られればもう逃げも隠れも出来ない。必ず探し出されると観念したためでしょうか。アダムとエヴァは神様の言いつけを破って、茂みに身を隠しました。すると「あなたはどこにいるのか」と神は探されました。だから必ず見つかると思ったのでしょうか。
「いと高き神の子イエス」と言ってひれ伏したのです。まるで以前からイエスのことを知っているかの様です。直感鋭く、直ちにイエスを神の子と見抜く力を持っていたのでしょうか。
「かまわないでくれ。後生だから苦しめないでくれ。」ここにも彼の切ない姿があります。絶望に自分を押しやって自傷行為をしている方が、新しく生まれ変わるよりも気が休まると言わんばかりです。み救いの光の中に置かれるよりも、このまま死を迎える方がいい。世を呪い、自分を呪い、神も呪って死を迎える方が、首尾一貫した人生だというのでしょうか。
だが、イエスはこの男にも、神の国の救いの光を照らされます。イエスが嵐の湖を弟子たちと命懸けで渡って来られたのは、彼を救い出すためでした。この男ただ一人を目指して、夜の湖を渡られたのです。
イエスの愛は一人を大事にします。1対1でその魂と出会い、その人格と出会われます。1人の人が救われるなら、天では大きな喜びがあります。
彼は異邦人であり外国人ですが、彼も神の家族の大切な一員だからです。神のご支配はそこまで届いています。イエスの、神の家族観はユダヤ人の壁を破って、そこまで広く大きいのです。イエスは、悲しむ者と共に悲しみ、苦しむ者と共にそこまで苦しんで下さり、それを共有していかれます。
自分では到底持ち上げることが出来ない何千キロの重い荷を一緒に持ち上げ、軽くして下さる、更には取り去って下さるのです。
この狂人は、悔い改めを必要としているのです。悔い改め、それは人によってはとても苦しいことです。泥をみな吐き出さねばなりません。泥を吐き出さずに軽くなりません。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来てくださった』という言葉は確実で、そのまま受け入れるに足るものである」と第1テモテ1章にあります。イエスの前にその泥を吐き出すならすっかり軽くされるでしょう。
絶望という形の自己義認であろうと、間違った自己肯定のあり方を改めて方向転換し、神に委ねなければなりません。その時、平和が向うからやってきます。自分で作り出すのでなく、神様の方から授けられるのです。
手術が必要です。痛みを通して救われる。痛みから逃げてはならない。叫びまくるだけでは解決しません。投げ出してしまってはなりません。水はもう一掘りすれば湧き出すのです。もう一掘りで泉が湧く。解決はすぐ足元に来ているのです。私たちにも、彼にも、人生の新しい朝が来るように、イエスはガリラヤ湖を渡って来られるのです。
(4)
「汚れた霊よ、この人から出て行け。名は何と言うか。」「レギオン。大勢だからです。」
彼は悪霊に憑かれていたと言うのです。彼に取り付いた悪霊は、自虐の霊です。しかし自虐は転じれば直ちに加虐の霊になります。だが、ここでは自分を痛めつけ、虐待して苦しめる悪霊です。レギオンというのは、当時のローマの約6000人の屈強な兵からなる正規軍のことです。彼は圧倒的にまさに正真正銘の悪霊どもによって占領されて、魂は荒れ放題になっていたという事でしょう。
しかしどれだけ圧倒的に魂が占領されていようと、イエスの救いはその人にまで届きます。信仰はスーパーマンのように血の出るような懸命な努力をすることではありません。ただ心砕かれて、神とキリストの前に謙ることだけです。
スーパーマンのように強くなるのでなく、むしろ先手を打って働いて下さるキリストの恵みに委ね、それを受け入れることだけです。神のみ手にすっかり委ねるだけです。たとえレギオンに支配されていようと、支配されている自分を神に委ねる。その時、新しい歩みが拓かれて来ます。
そのことは来週、ご一緒にお聞きしたいと思います。
(完)
2010年11月7日
板橋大山教会 上垣 勝
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