地下700mで日毎の祈りをしていた鉱夫たち


                  リフォーム(3)  すっかり大きな口を空けた教会。
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                                              リーダーへの叱責 (上)
                                              エゼキエル34章1-2節


                                 (4)
  今日はチョッとずけずけ言いますが、東京に来て驚いた事は、教会間の連帯、例えば教師謝儀保障制度がないこと。各個教会主義です。ある年の教区総会で数人の牧師が立ち上がって、弱小教会の牧師は「能力がないから、努力していないからダメなのであって、彼らの責任である」とあからさまに言っていました。一つなる教会と言いながら現実はそう考えていない。意見が違っても励まし合い、意見の違いは豊かさの徴だと大きく捉える視点が弱い。

  今アメリカでティー・パーティ、茶会というグループがオバマ政権を脅かしています。彼らは中流の階層だそうで、貧しい者を社会が支えるなんて、自分達が養ってあげる必要はない。自分たちは懸命に働いているが彼らは遊んでいる。そういう人間に富を分け与える必要はないと主張しています。

  一般社会がこういう事を言うならまだ分かります。だが主において一つである筈の牧師たちが、アメリカの中産階級と同じ発想になっている。大教会の牧師の中にそこまで病んでいる牧師たちがいます。キリストの憐れみにより、赦されて牧者の業に就けられたという自覚が薄いのかも知れません。自分がなったという事でしょう。魂が砕かれていない。


 チリの鉱山の落盤事故で地下700mから33人の人たちが、69日ぶりに世界が見守る中で全員救出されてもう2週間が経って、忘れ去られそうになっています。

  落盤があったのは丁度正午。お昼時で全員集まって昼食していた。仕事中なら5、6kmに散らばって作業していた。そうなら何人か犠牲になっていた筈です。

  非常用の保存食がありましたが、何日で救出されるか何週間かかるか分からない。その中で皆で分配量を決めた。2日に一度、スプーン2杯の缶詰のツナ、ミルク2杯、そしてビスケット一枚。17日間、どんなにひもじかったか。しかし33人の全員に配り終わるまで、誰も決して手をつけなかった。大変な連帯です。

  ある時、聞いたそうです。個々別々に死んでいくか、それとも生き延びる最善の道を探すため一緒に働くか。連帯の道か、自分勝手の道か。そういう中で彼らは連帯の道を選び取った。

  自分は澄んだ水を飲み残りを足でかき回す。人を踏んづけて生き残っていく。自分だけ良い牧草を食べ他の者の事は考えない。自分自身を養って群れを養わない牧者。

  鉱夫たちが救出されたのは「連帯が鍵」であったのです。個々人の個別的利益よりも共通の善を優先した。

  今、日本社会に最も必要なことがエゼキエル書で語られています。彼の批判は手厳しい。手厳しいですがこれが社会を救う道です。個別的利益だけを追求して公共性を大事にしないなら、必ず大変な事態を招くでしょう。

  チリの事件も同じことを教えています。ただ、地下の連帯は素晴らしい指導者ただ一人でできたわけではない。53才の方の指導力は素晴らしいと思いますが、あの人だけでできたわけでありません。

  しばらく前に、19才の最年少の青年の手紙に触れました。彼がまだ地下にいた時、地上に手紙を届けていました。「自分はこの所で口では表現できない何かを感じています。」言葉では表せない不思議なものを感じている。「もし全員が生還すれば、今後自分達に何かをするように神が計画されている気がする。地下には33人が閉じ込められています。だが、実際は34人いるのです。なぜなら、もう一人いつも私たちのそばにいて歩き廻っている者がいるからです。それは神です。」

  残念ですが、日本の新聞やテレビでは割愛されて報道されないことが色々あります。例えば、あの地下で、毎日、彼らは日毎の祈りの時を持っていたのです。みなさんご存知でした?この日毎の祈りは連帯を成り立たせる中核になったものです。信仰を持たない人もありましたが、信仰的な人たちが心を合わせて祈りの時を持った。するとその周りに人々が集まって来たのです。一人が司式し、別の鉱夫が素人です詩人がいて、祈りの詩、詩のような祈りの言葉を書き、それを読んで毎日神に祈った。

  69日間の日毎の祈りをする中で、何と2人の人が信仰を持つようになりました。先程の19歳の青年も、この祈りの連帯の中で、地下にもう一人がいる、34人がいる。キリストが連帯して下さっていると信仰的な目覚めをしていった分けです。

  エゼキエルはイスラエルの「リーダへの叱責」を語りましたが、それはとりもなおさず「連帯」への要求でした。彼は今、牧者は群れを養うべきであって、自分自身を養っていてはならない、良い羊飼いとして羊たちに愛情をもって支え、羊に連帯して生きるべきだと語るのです。これはあらゆる団体、組織、職業、そして家庭でもリーダーである人に妥当する事ではないでしょうか。

       (完)

                                        2010年10月31日


                                       板橋大山教会   上垣 勝

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