不況の中、心配は原発事故
リフォーム(3) 解体はユンボなどの機械は使わない。柱も一本一本ていねいに切り取っていく。実った石榴の木もモミの木も手で倒された。
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リーダーへの叱責 (上)
エゼキエル34章1-2節
(2)
今日は43章全部を読んで頂くべきでしたが、聖書箇所を短くしたので分かり難いかも知れませんが、43章はイスラエルの牧者たちの怠慢が厳しく指摘され(聖書をお持ちの方はご覧下さい)、11節で、それゆえ「私は自ら、自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」と、神自らがイスラエルの群れを養う。もう羊飼いは不要である、神こそまことの羊飼いであり、よき牧者であると言われます。これはイエス・キリストの預言と言ってよいでしょう。
14節は、「私は良い牧草地で彼らを養う」とあり、16節で、「私は失われた者を尋ね求め、追われる者を連れ戻し、傷ついた者を包み、弱った者を強くする。しかし、肥えた者と強い者を滅ぼす。私は公平をもって彼らを養う」と語られます。
私は個人的には、できれば肥えた者も太った者も血色のいい者もみんな滅ぼさないでほしいと思います。私は痩せてはいますが、肥えた人に恨みを持っているわけではありません。聖書が語っているのです。
だが、痩せていても、心の太った者や驕り高ぶる者、人の言葉に耳貸さぬ強引な者も含まれるとすれば、私も皆さんも安閑としてはおれません。
18節から19節にかけてこうあります。「お前たちは良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分達は澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回す。…私の群れは、お前たちが足で踏み荒らした草を食べ、足でかき回した水を飲んでいる。それゆえ、…私自身が肥えた羊と痩せた羊の間を裁く。お前たちは脇腹と肩で全ての弱い者を押しのけ、角で突き飛ばし、遂には外へ追いやった。…」
牧者は私腹を肥やして自分自身のために生きているが、それを見習ってか、肥えた羊たちも自分のことしか考えない。「脇腹と肩で弱い者を押しのけ…」とあります。体重の重さで押しの一手で押しのけて行く。弱肉強食の世界です。
「それゆえ、…私自身が肥えた羊と痩せた羊の間を裁く。」肥えた羊は自分の力で、自分の才覚で生きていると思っている。神が祝福してくださったと思っていない。神への謙虚がなく、そのために人への謙虚と思い遣りがなくなっている。
即ち、今イスラエルの社会には連帯が崩れ、共に生きる生き方、大なる者は小なる者の分かち合わない。富む者は益々富み、貧しい者は益々貧しくなり、仕事をする者はバリバリ仕事をし、仕事のない者は人間の屑のように見なされ、突き飛ばされて、遂に社会の外に追いやられたということが起っている。
行過ぎた個人主義、利己主義。社会を束ねる要がなくなったために国は崩壊したのだとエゼキエルは語るのです。
(3)
先日の新聞にあったことです。堤未果さんというジャーナリストが、アメリカとアメリカを見習ってきた日本社会のことを書いていました。
例えば、アメリカで病院が株式会社になり、利益追求が加速して人件費が大幅に削減され、医師たちの負担が非常に増えて、そのために医療ミスが起り、医療ミスの訴訟が格段に増えている。JALもそうですが、航空業界もパイロットが減らされ、過労による事故が多発している。
今私の心配するのは原発の事故です。大体経済が悪化すると事故が起こります。アメリカでもソ連でもそうでした。だって定期検査の間隔が延ばされたり、人員が減らされてうまく管理できない。すると事故になり易いのです。不況が長く続くと世界のどこかで事故が起る可能性は大です。
余りに忙しく、ゆったりする余裕がなくなっている。世界よ、そんなに急いでどこへ行くと思いません?世界丸ごと何も急ぐ必要なんてないんです。
日本ではまだそこまで行かないですが、アメリカでは教育も「国が人材を育てる」のでなく、「国民は自己責任で教育費を投資する」という考えが強くなっているということです。それで日本でもそうですが、アメリカでも父母の圧力が強くなり、心身を病む教師が増えている。
私は東京に来て5年半ですが、私の周りにそういう知人が1、2、3人います。私の狭い交友範囲で3人です。これは異常です。
人を「モノ」として扱えば経済効率は上がっても、幸せな社会を創れるとは限らない。利潤追求には限界がある。競争原理だけでなく公共性をもっと導入しなければ、やがて人々は疲れ果てて無気力になるに違いない。ホントにそうだと思います。
ハンセン病の人たちに生涯仕えた井深八重という婦人のことを、暫く前にお話ししました。ソニーの井深さんの遠縁に当たる人です。英語教師をしていたが20代にハンセン病と診断され、静岡の療養所に隔離されました。だが後に誤診だと分かります。大喜びで社会復帰したかと思うと、彼女は社会に戻らない。貧しい悲惨なハンセン病者のため献身的に働く神父や医者を見て、自分だけ健康になって出て行くわけにいかないと考えます。自分だけ出て行っては病気の人たちにすまない、申し訳ない、病者に赦しを乞うために信仰をもって生涯を献げた。
井深さんは自分だけを養おうとせず、彼らに連帯したのです。彼らの事をわが事として担った。信仰者として、彼らは彼ら、自分は自分、皆勝手だという考えを越えて行った。
だがイスラエルの牧者は、傷ついた者や弱った者のことを、わが事として担う気概がない。弱い者たちの真の姿を知らされた者の責任と感じ、それを負って行こうとする心がない。そういう自分勝手さ、利己主義が国の危機を招いたとエゼキエルは言うのです。
(つづく)
2010年10月31日
板橋大山教会 上垣 勝
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