至る所に氷山の一角があります


ハギア・ソフィア教会はやがてイスラムに占領されイスラム寺院に作り変えられ、その入口に巨大なこの清めの井戸が作られました。
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                                              その所で生き、信仰を糧とせよ (上)
                                              詩篇37篇1-6節

                              (1)
  今年も1千人近くが来る盛大なバザーをすることが出来ています。皆さん、昨日はとてもいい売り子さんをして下さり心から感謝いたします。充実したバザーでしたが、でもちょっと疲れましたね。

  今日はまだ短いバザーを残していますので、お話しは短く詩篇からいたします。

  先程の所に、「悪事を謀る者のことでいらだつな。不正を行なう者をうらやむな。…主に信頼し、善を行え。この地に住みつき、信仰を糧とせよ。…主はあなたの心の願いをかなえてくださる」とありました。

  私たちは表面的に、目に見えることで判断しがちです。いや、皆さんというより私自身がそうです。社会で生きていると、威勢のいい人、力のある人、繁栄の道を行く人に目が行きがちです。うらやんだり、先を越されたと思ったり心は色んな事で波立ちます。

  しかしこの詩篇は、もっと人生の深いところを見よ。水面下に隠れている真理に目を向けよと語っています。

  始めて「氷山の一角」という言葉の意味を知ったのは中学生の時でしたでしょうか、私は耳を疑いました。海面に出ている氷山はごく僅かで、その7倍もの氷が海面下に隠れているというのです。

  だが年齢が進むにつれ、氷だけでなく、人間社会のあらゆる場面で氷山の一角があって、水面下にこそ真実が隠れていたり、見えぬ真実を知らない限りまだ物事を見ていないとさえ言えるのでないかと、思うようになりました。

  先程の招きの詞(ことば)に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とありましたが、信仰だけでなく社会においてもこれはそうだと思います。

                              (2)
  詳しく話せませんが、妻がかかわっているある仕事で、脳性小児麻痺の重い障碍を持ちながら仕事をしている人があります。Aさんとお呼びしますが、毎日7時半頃に家を出て1時間ほどかけて会社に着きます。頭は普通ですが、歩くのも人とのコミニケーションにも大変な困難があり、買い物なども大変だと思います。結婚せず両親と暮らして来ましたが、最近お母さんが食事を作れなくなったし、外出もできない。父親が台所に立つようになったけれど、あまりうまく料理が出来ない。

  で、Aさんは重い障碍を持ちながら年取った両親の面倒を見ているんだそうです。面倒と言っても限界があるでしょう。これ迄は両親に見られていたのに、反対に見なければならなくなった。私はそれを聞いて心がいたく締めつけられました。

  アドバイスが出来ないかとよく聞いて見ると、母親は痴呆がかなり進んでいるらしい。福祉の世話になるべき状態ですが、Aさんはこんな障碍を持ちつつ朝早く出勤し、夜遅く帰るし、なかなか休めない。それどころか休日出勤もあるし残業もある。忙しい職場のようで、遅く帰るともっと早く帰って来いとか、買い物して来いと言って父親は怒るんだそうです。お父さんだって大変になりつつある。

  母親のことを市役所や社会福祉事務所に相談するように勧めると、自分は休めないし、時間が取れない。父親が相談に行けばいいが、「息子が脳性小児麻痺で、妻が痴呆なんて、こんな恥ずかしいことが人に知れたら、世間に顔向けが出来ない」と言って決して相談にいこうとしない。頑固である。そこを何とか解きほぐしたいが、恐らくそれが出来ないだろうと言うのです。それでAさんは、先が真っ暗になってしまっているという事で、深刻な相談だったようです。

  しかし、これはそんなに特殊な事柄でなくて、これに似た所で生きている人が多くおられます。幸せな所で生きていると、返って人生を浅くしか人生の真相を理解できないことがあるのでないか、と思いました。

           (つづく)

                                          2010年10月17日



                                       板橋大山教会   上垣 勝

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