神さまのモデルチェンジ


                    415年創設のハギア・ソフィア教会の羊たちのレリーフ
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                                              ただ一人の神とその愛 (下)
                                              申命記4章15-40節



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  では、このただ一人の神の下に、その愛の下に生きるとはどう生きることでしょう。それが次の5章の十戒で語られることです。

  一言で言えば、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主なる神を愛せよ、同時に、自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよということです。十戒の前半と後半はこの2つの戒めに要約され、またこの2つの戒めはただ一つの事柄です。


  私は今日、皆さんも薄々お気づきになっており、ご本人達も考えておられるかも知れないことに触れたいと思います。

  その主旨は、私たちの教会は神の一つの民であること、神の家族であること、いついかなる時も神に愛された一人ひとりであり、一つの群れであるということです。

  というのは、ご本人たちを前に申し上げますが、何人かの方がご高齢のために耳が遠くなりつつあります。今日は出席でない方々の中にもあります。ご本人のせいではありません。遺伝子のせいでもありません。むろん科学的にはそう説明できるでしょうが、神の栄光が現われるためだと考えます。このことを通しても、神の栄光が現われるのです。

  Aさんは強い弱視のために文章をスラスラ読むことが出来ないので、彼が礼拝の司式の時、皆さんの中には、詰らないように、間違わないように、飛ばさないようにとヒヤヒヤして聴いておられる方や、中には少しイライラしかけてじっと耐えておられる方があるかも知れません。でも目がよく見えれば、明晰にお読みになれるのに、文字が読めないかのような恥ずかしい姿を人前に晒さなければならない。だがそれを甘んじて受け、ご自分の務めを果たして下さっています。しかしAさんは、独習でパソコン関係の難しい技術に習熟しておられて、私は驚きます。でも文字を読む時はこうでしかあり得ません。

  しかし今度は、神様は私たちの群れに、視力でなく聴力の困難を抱える方々をお与え下さいました。これは、私たちの教会の度量が更に大きくなるために、神が特別お授け下さった方々です。耳の聞こえる時は良かったのですが、聞こえなくなったらダメというのでなく、神様が言わばモデルチェンジしてこの方々を教会にお遣わし下さろうとしておられると、私は考えています。

  難聴へとモデルチェンジです。モデルチェンジですから、必ず良い意味を含んでいるということです。

  要するに、聴力に障碍をもつ方々もできるだけ不自由を感じないように、仲間に加わって一緒に活動が出来るようにということです。そのために必要なら横に座って耳元で伝える方や、要約筆記する方が必要です。

  恐らく、今つけておられるレシーバーやイヤホーンでお聞き下さる限り、説教は今後も当分聞き取れると思います。もし聞き取れなくなれば、教会はもっと性能の良いものを備えたいと思います。

  ただ、人間は誰しも打ち溶け合った雑談の時が一番楽しい時です。打てば響くその雑談に自由に加われないのは淋しいと思います。他の人たちは笑っているのに、なぜ笑っているのか理解できない。置いてきぼりになる。それであいまいな所で笑っておく。その孤独感、孤立、仲間に取り残され、理解できずにおられると周りの者は気をもみます。耳の聞こえる人はその孤立が分かりますから、気をもみつつ話し、また他の人の話を伝えようと言葉を挟もうとしますが、話に流れがありうまく切り出せなくて緊張もします。

  疎外や疎外感が好まないのに起ってしまう。すると心が離れそうになる。ですから、そこで私たち全員の人間としての成熟が課題になります。これは口で言うほど簡単ではありません。

  私は、人間同士のコミュニケーションが100%可能だとは思いません。それほど楽観主義者ではありません。そういう意味では私たちはすべて、足るを知る人でなければならない。だが最初から諦めないことが大事ですし、諦めないことを目指したいと思います。共に生きるためにそれが必要です。

  それが、先程申しました「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」ということです。また、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主なる神を愛せよ」ということです。

  ある優れた牧師を知っています。私と同年代ですが前立腺ガンが分かり、何ヶ月かの間に35回も放射線照射を受けたと伝えてきました。かなりショックだったと思います。体力も落ちたでしょう。彼は今、「弱者の視点」を持つようになったと書いていました。

  かなりの難聴になり、ますます聞こえ難くなられても、その中で神様が下さる恵みがあることを疑わないで下さい。この牧師のように「弱者の視点」を発見して、これまで以上に広い温かい視点を持つ人間にしようとしておられるのかも知れません。

  難聴が人間の能力の低下の時であっても、むしろ人間の質としての上昇の時であり、人格の進化の時にしようとしておられるかも知れません。

隣人とは何でしょうか。自分にとって、その人が役立つから隣人でしょうか。それは淋しいことです。打てば響いて快いから隣人でしょうか。では、打てば響かなくなったら隣人でなくなるのでしょうか。

  コミュニケーションの障碍を乗り越えて隣人になって行く、なれると信じて、その道を探して行くことが大切です。

  今後ますます難聴になって行くかも知れない方々も、そうでない方々も、いや、難聴や視力障害以外の障碍やもっと違った局面の難しい困難を抱えている方々もおありです。その方々とも共にただ一人の神を拝し、その愛を信頼して共に歩んでいく。それが申命記4章、5章、そしてイエスが生きられ、指し示された道だと思います。

  役立つには弱過ぎると思える人の中に、神様は善良さや優しさや愛の心という恵みをそっと宿らせておられます。神の庭には、何と様々な花が咲いていることでしょう。上を向いて咲く花がありますが、うつむいてしか咲かない花もあります。日向に咲く花もあり、日陰でそっと咲く花もあります。群れて咲くものもあり、一人咲くものもあります。しかしその花々は皆、神の大地に支えられ養われて咲いている事を喜んでいます。物言わずに喜んでいます。花からも学びたいと思います。

  私たちは心砕かれ、謙虚に心がへりくだることへと招かれています。

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  私たちは自分の命を何のために使いますか。神様のためです。隣人のためです。私たちは愛を生き、愛するために人生を生きていきたいと思います。

  「私は道であり、真理であり、命である」とイエスは言われました。コミュニケーションの障碍の壁は厚いです。中々手ごわいです。それは誤解を生むから難しいです。耳がよく聞こえても、うまく思いを伝えられず誤解される場合がありますし、私たちも誤解する場合もありますから、安易に、簡単にそれを越えて行けるとは思いません。

  しかし、同時にそれを越えるのはいたって簡単です。それは信頼し合って歩むことです。単純に、信頼し合う。相手を愛し、姥捨て山のように、どんな人も山に捨てようとは思わないし、捨てられるとも思わないことを信じて、心ねじけず、信頼し合っていく。

  「主こそ神であり、他に神はない。」このことを心に深く留め、「主の掟と戒めを守りなさい」と言われ、「あなたに続く、子孫もこの土地で幸いを得なさい」と言われています。

  私たちはリフォーム工事を月末から始めようとしています。私たちの小さい群れがリフォーム後の新鮮な会堂で一緒に礼拝を守れる日を楽しみに待ち望みましょう。

  最後にヨハネ第1の手紙4章19節から聞きましょう。「私たちが愛するのは、神が先ず私たちを愛して下さったからです。神を愛すると言いながら、兄弟を憎む者がいれば、それは偽りです。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することが出来ません。神を愛する人は、兄弟をも愛するべきです。これが神から受けた掟です。」

  私たちは何と幸いなことでしょう。私たちは今、このことへと招かれています。

          (完)


                                         2010年10月10日


                                       板橋大山教会   上垣 勝

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