希望の光が現われるように


      イスタンブールでは空手が盛んなんだそうです。壁に合掌とあり、道場主は袴をはいていました。
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                                              隠された宝のありか (上)
                                              コロサイ2章1-5節


                              (1)
  パウロは1章で、「私はあなた方のために、苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」と述べました。彼は苦難の獄中生活を、キリストの苦しみの欠けた所を補い満たしているという感謝の思いで過ごしたのでしょう。そして今日の1節では、「私が、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、私とまだ直接顔を合わせたことのない全ての人のために、どれ程労苦して闘っているか、分かって欲しい」と書いていました。

  彼は苦しみや労苦を売り物にしているのではありません。売り物にしている人が時々ありますが、彼は身をもって労苦している事実を伝えることは、彼らと緊密な連帯になると考えたのでしょう。獄中の彼は、労苦を牢中だけで終らせず、キリストのためであることを世に明らかにすることによって、牢の外の人たちを励まそうとしたのです。

  そのことは今日の最後の所で、「私は体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなた方の正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます」とあることから窺い知ることができます。獄中と外とはどんなに行き来が困難でも、また場所的にコロサイとどんなに離れていても、「霊では共にいる」、信仰において共に歩んでいるという確かな確信をもって生きていたのです。

  先週の月曜に、Aさんが3回目の再入院をして辛い治療生活に入られました。今が最も険しい峠だそうです。彼女はこの苦難を、身に降りかかった災難、困ったことと受け留めていません。普通なら絶望するか居ても立ってもいられないでしょうに、これを、キリストを証しする機会にしたい、証しが出来さえすれば満足ですと話しておられて、イザヤ書53章のくびきに繋がれて引かれ行く小羊のように、いじらしいまでも真実な信仰に生きておられます。

  一段と軽くなったあの細いお体で、どこからこういうパッション、情熱が出てくるのかと思います。

  パウロに似ています。パウロは4章で、この手紙を読んだらラオディキアにも回章として廻して欲しいと述べ、同時にラオディキアから廻って来る手紙も読んで欲しいと書いていますが、彼は獄中でキリストを指し示してどれほど懸命に闘っているか、生きた証しとして手紙を多くの人に読んで欲しい。そして「心を励まされ、愛によって結び合わされ」とあるように、教会が一致して歩むことをと願ったのです。

  パウロは労苦を喜びとしました。闇のような出口のない所にいても復活のキリストを信じ、復活のキリストに気づかなくても、近くに留まっておられることを信じ、喜びました。

  きょうから礼拝の招きの言葉が新しくなりました。私は忘れていましたら、奥村さんが覚えていて掲示用のもの書いて持って来て下さいました。「信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することです。」これはパウロの信仰の核心を、中心を表わしています。パウロは獄中にあってもキリストの勝利を確信し、「私は福音を恥としない」と語って、福音に誇りをもって生きたのです。

  彼は全世界を治める「歴史の主」、勝利者キリストを信じたのです。復活のキリストは死に打ち勝った勝利者キリストです。「恐れることはない。私は既に世に勝っている」と言われました。目に見えなくても勝利者として近くにおられる。パウロは獄中にあっても勝利者キリストを望み見て、信仰に生きたのです。

                              (2)
  続いて彼は、何のために苦しむかを書いて、「それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」と述べました。

  「神の秘められた計画」とは、秘められた神の奥義のことです。最も深い真理です。

  フィリピ書にあるように、パウロは獄中にありながら、神の奥義を啓示された者としてその喜びを人々に伝えたいのです。

  彼は、まるでイエスが語られた、天国の譬えに出てくる一人の男のような姿をしています。男は畑に宝が隠されているのを知ると、喜びのあまり持ち物をすっかり売り払ってその畑を買うのだと、イエスは言われました。

  畑とは農夫が普段に農作物の世話をするところです。日常生活の場と言っていいでしょう。そこに宝があるとは誰も思いません。

  私はU座商店街とかハッピーロードをいつも散歩していて、何か落ちていないかと探しているわけではありませんが、何か新しい発見がないかと探していますが、ありませんね。本日餃子100円とかはあるんですが。そう、ただ一回、去年のクリスマス前に歩いていたら、大きな株のシクラメンがたった1000円。息せき切ってお金を取りに帰りました。売り切れちゃたまりませんから。その後は、そこを通るたびに、何か得するものはないかとつい眼が行っています。

  ただ、持ち物を売り払ってまでして買いたくなる宝物はないですね。

  パウロはダマスコへの途上、これまでの考えを覆され、驚きをもって神の奥義を啓示されて、人生を根本的に見直すようになりました。復活のキリストに出合って、最初目が見えなくなるほどでした。人間の見方が律法主義からキリストにおいて啓示された神の愛による見方へと転換されました。いわば、彼はこれまでの価値観をすっかり売り払って、宝が隠されている畑を買いました。

  イエスは、宝だけでなく、「宝が隠されている畑を買う」と言っていらっしゃいますが、そこに含みがあります。生活の中にキリストという宝が隠されている。その様な畑、その様な日常生活の中でキリストを発見して生きる。天国はそういうものだと語って、そういう信仰の道を示されました。

  私たちは畑の中にガラクタがあって、そのガラクタがキラキラ光るので思わず飛びついたりしながら、色々な方向に引っ張られて生きています。しかしどんな方向に引っ張られても、私たちは宝を見つけた時は一人で決断しなければなりません。誰も私に代わることはできません。

  パウロはその決断をしたのです。ですから彼は、獄中にあっても屈せず、途方に暮れても希望を失わず、打ち倒されても滅ぼされなかったのです。いつもイエスの死を体にまとって生き、イエスの復活の命が体に現われるように生きました。即ち、希望の光が現われるように生きたのです。

  大事なのは、私たちを通して希望の光が現われることです。暗いこと、心配なこと、悲観的なことは多いし、誰しも言います。しかし、希望の光に目を留め、希望を与える言葉を語り、希望を指し示しながら生きることです。

  ですからパウロは、外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされて生きる事ができたのでしょう。ですから、「知恵と知識の宝はすべてキリストの内に隠れています」と言うことができたのでしょう。

          (つづく)

                                 2010年10月3日


                                       板橋大山教会   上垣 勝

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