出来損ないのワイシャツの譬え


                       イスタンブール新市外に住む友人宅で。
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                                              長く隠されてきた秘密 (上)
                                              コロサイ1章26節-29節

                              (2)
  申命記7章に、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいる全ての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなた方を選ばれたのは、あなた方が他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちはどの民よりも貧弱であった」とあります。

  神はそんな民を選んで「聖なる民」、「宝の民」とされるのです。今日の「神の聖なる者たち」はそういう者たちのことです。

  秘められた計画が、この世の地位ある者や優れた者でなく、無学な者や身分の卑しい者、劣った者や無きに等しい者が選ばれることによってなされたということは、パウロがコリント前書で説いた福音の中心メッセージの一つです。

  しかも27節は、「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされた」と語ります。

  神の秘められた素晴らしい計画が、ユダヤ人という民族の厚い壁を越えて異邦人、外国人に及び、世界の人たちを明るく照らす啓示の光となったという意味です。ルカ2章が、これは「万民のための救い」であり、「異邦人を照らす啓示の光」であると記している通りです。

  日本の中から、韓国人や中国人、ベトナム人に希望を与える宗教や思想が生まれるようなことは非常に考えにくい事です。そんなことは到底ありえません。経済大国になるにつれて日本の宗教が大手を振って外国に進出したのであって、本来その宗教が「異邦人を照らす光」としてあったのではありません。外国に進出することと、外国人を照らすこととは全く違います。

  キリストの光はユダヤ民族の壁を越えて、外国人に達し、全世界の人にとってどれ程栄光に満ち、希望を与えるものであるかが明らかにされたというのです。

                              (3)
  パウロは次に、自分は、「全ての人がキリストに結ばれて完全な者になるように、知恵を尽くして全ての人を諭し、教えています」と語っています。

  「完全な人になるように」という言葉でプレッシャーを感じる人もあるでしょうが、私たちが怠惰にならないために多少プレッシャーがあるのはよいことです。ただ、キリスト者になって、これまで欠けばかりの人が、完全な人になるようにという事とはちょっと違います。確かに信仰に入って見事に変身する人もありますが、ここではそういう人格的完成を目指せというのではありません。

  「キリストに結ばれて完全な者となるように」と語っています。キリストに「結ばれて」の完全。キリストに「あって」の完全です。ですからキリスト「なし」には不完全であるということです。

  むろんキリストにあって大人になるという事。責任転嫁しない人間になる。責任を引き受ける人間になるということは重要です。

  だがその手前の事として、キリストに「結ばれる」時、「不完全な完全」という事が起るということです。自分は不完全だが、「キリストにおいて」完全が与えられる。キリストが私たちの不完全の帳尻を合わせて下さるということです。

  私たちは、どうしても辻褄が合わないことが多々あります。自分の責任ではない。いや自分の責任もあるかも知れません。しかし、体の病気にしても、心の病にしても、また人生の試練や悩みや葛藤の伴う境遇を思うと、時に自分が不憫になって、「誰がこんな自分にしたんだ」と言いたくもなる。

  私はいつか妻から、「こんな私に誰がしたの?」って言われはしないかと、ビクついています…。

  きのうのテレビでしたか、30代だが正規の仕事に就けないために、自分は世から必要とされない、不要な人間だと思えて、本当に悩んでいる人たちが多くあると報じられていました。なぜ、こんなことになったんだと人生の辻褄が合わないで恨む。人生の辻褄が合わない、不条理が一杯あります。

  青年時代に影響を受けた鈴木正久という牧師は、よく出来損ないのワイシャツの譬えをしました。奥さんが夜なべをして、居眠りしながらワイシャツを作った。それでボタン穴は5つ作ったが、ボタンは寝ぼけて4つしか付けなかった。それで、上からかければ下でボタン穴が余り、下からかければ上で余る。どっちからかけてもボタン穴が余る。

  それで、仕方なしにボタン穴を手で隠して、まるで欠けのないような、筋が通ったような顔をして生きているのが私たちでないか。しかも、筋が通らない所を手で隠しながら、人の悪い所を見つけて咎めたり、攻撃したりする。

  悪人が善人のような顔をし、善人が悪者にさせられる。どこかの主任検事みたいな姿を人間は多少なりとも持っている。そこに人間の原罪がある。

  だが、辻褄が合わない所に立って、辻褄を合わせて下さるのがイエス・キリストである。自ら十字架に付いて、死んで、私たちの人生の辻褄が会うように、辻褄が合わない所に立って下さった。そこに十字架があるし、救いがある。

  キリストが私たちの不完全の帳尻を合わせて下さったのです。だから不完全や辻褄が合わないのを隠す必要はない。ごまかす必要はない。自分は辻褄が合わないと悩んでいると、結構人々もそのことで辻褄が合わないと悩んでいる。それは人類共通の罪の問題だったりする。だがそれをキリストは解決してくださった。これが「キリストにあっての完全」です。キリストから離れれば不完全ですが、キリストに結ばれて完全になるのです。

  先程、「死に至るまで忠実であれ。そうすれば命の冠をあなたがたに授けよう」という黙示録の言葉をご紹介しましたが、キリストを信じる時、最後に命の冠というか金の環(わ)を与えられるということでしょう。

  私たちは間違ったり、悪い事をしたり、騙したり、腹立てたりして生きています。そんなことを自分はしないという方はありますか。いないでしょう。

  人生はずっと続いた長い一本の鎖です。皆、間違ったり、ダメな事をしたり、騙したり、腹を立てたりという環を一つ一つ、日毎につないでいます。最後は金の環。だが途中は人を騙したり、ごまかしたり、悪いことをしたり。だが、それらの環も用いられて最後の金の環につながっていく。

  騙したり、腹を立てたりという事も用いられてです。キリストがお用い下さる。ということは、キリストに赦され、憐れみを与えられ、それらも用いられて最後に辻褄を合わせて下さる。

  パウロが宣べ伝えたのは、そのような憐れみのキリストです。厳格な裁きのキリストでなく、「十字架の言」に表わされた神の秘められた赦しの計画でした。

  彼はリュコス渓谷に生まれたコロサイ教会がキリストの慰めを受け、栄光の希望を与えられて進むようにこの獄中からの手紙で励ますのです。

           (完)

                                        2010年9月26日


                                   板橋大山教会   上垣 勝

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