福井駅の名物駅弁売りだったOさん


            イスタンブールで彼女と水タバコ。背後の壁は厚さ5mほど、世界遺産でした。
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                                              長く隠されてきた秘密 (上)
                                              コロサイ1章26節-29節

                              (1)
  今日の26節に、「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです」とありました。

  「秘められた計画」とは、次の27節を見ると「あなた方の内におられるキリスト、栄光の希望」とあるように、キリストご自身を指していますが、同時に、苦しむ人々を我がこととして愛し、友となり、十字架と復活のキリストによって明らかにされた神のご計画のことです。即ち神の愛の御心です。

  それが今、「神の聖なる者たちに明らかにされた」と26節が語っています。

  ここに「神の聖なる者たち」とあるのは、前の訳では「聖徒たち」、英語では Saintsとなっていますが、特別な聖人たちでなくて、皆さんと同じキリストを信じる人たちのことで、もとの意味は「神のために取って置かれた者たち。神が特別な用のために取って置き、神専用の者になった者たち」という意味です。

  キリスト者というのは、私たちの自覚はどうであれ、神さまの御目から見ると、「神の栄光、尊厳を表わすために使われる者。神の用のために別にされ、神専用の者にされた人たち」ということです。

  こう言うと大変な任務だと思われるかも知れません。むろんそういう使命に召し出される人もいますが、「神の聖なる者たち」というのは、必ずしもこの世的に上等な者を言うのではありません。そうではなくて、その人によって神が最もよく証しされる。そういう者を指します。

  例えばエルサレムに入城されるイエスをお乗せしたロバの子です。あの子ロバはイエスがどういう方かをとてもよく表わしました。ロバですから「聖徒」とは言えませんが、しかしあの背の低いロバの子はイエスの低さ、神と人の前での謙遜、しかもその愛の高さ、権威を表わすために取って置かれた存在と言っていいでしょう。

  前にいた教会に、Oさんという人がいました。胃腸が弱くて77歳の喜寿を待たずに亡くなりました。Oさんは戦争で、心がボロボロになって帰って来ました。

  戦争というのは人間を狂わせます。Oさんではありませんが、ある戦地では敵の首をはねて、それをサッカー・ボールにして遊んだといいます。まさに人間への冒涜です。人を狂わせない戦争はないでしょう。そこでは人間の原罪がまともに現れます。

  復員して、戦後腑抜けになってブラブラしていました。父親は鉱山の所長でした。Oさんも良い素質を持っていましたが、それらは戦争ですっかり潰されたようです。

  そんなOさんがキリスト教に触れて洗礼を受けます。その後、鉱山の社宅がある田舎町から福井の町に出て紙芝居屋を始め、子どもたちに慕われて、子どもによって癒されて段々正常な心を取り戻して行きました。やがて福井駅の駅弁売りになって、「べんとう~や、べんとう」と名物駅弁売りになって何十年か働きました。冬の名物は越前ガニですが、冬には「越前ガニ~、越前ガニ~」と触れ回って、汽車が止まっている間、窓越しに越前ガニを売って廻ったそうです。

  私がいた頃は、自分は長くアル中だと言っていましたが、水曜日の聖書研究祈祷会は詩編や黙示録を学びましたが、欠かさず出ていました。ただ、教会内がプンプン匂いました。しかし、何年かして好きだった酒をほぼやめるようになりました。

  よく訪問しましたが、亡くなる暫く前に訪ねましたら、ステテコ姿で大相撲の観戦中でした。相撲が終わって、黙示録2章のスミルナ教会に宛てた手紙の、「私は、あなた方の苦難や貧しさを知っている。だが本当はあなたがたは豊かなのだ。…死に至るまで忠実であれ。そうすれば命の冠をあなたがたに授けよう」という所をお読みしますと、「いいですね」と何度もおっしゃって黙示録の話になりました。

  あなたは経済的・物質的に貧しいかも知れない。地位もなくこの世的には恵まれていない。だが、心は神の愛を知って満たされている。あなたの人生は豊かじゃあないか。地上の恵みは少なかったかも知れない。だが天の恵みに与って心は潤されているじゃあないか、と言うのです。そんな話しをし合いました。確かにOさんも豊かではありませんでした。

亡くなられてお葬式前にOさんの聖書を見せて頂きましたら、150篇ある詩編の至る所、ほぼ全部に書き込みがありました。ということは、私がお話ししたことをしっかり書き留めておられたし、夜の聖書研究会にほぼ休まず出席しておられたという証拠です。

  聖書は汚れていいのです。Oさんの聖書は他の所も汚れてボロボロでした。ボロボロになるほど聖書を読んでおられました。皆さん、聖書を読んでください。クリスチャンとは聖書と取り組む者、聖書に導かれる者です。

  この世的には何も優れたところがない。好きな酒を飲んで聖書を学びに来る方ですが、イエス様を慕って、イエスをお乗せした子ロバのようにイエスを不思議と指し示す者として、神はOさんを取って置かれていたと思います。

         (つづく)

                                         2010年9月26日


                                   板橋大山教会   上垣 勝

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