発見されるのを待っている隣人


                     イスタンブールシシカバブ屋のおっちゃん。
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                                              最も小さい者、キリスト (下)
                                              マタイ25章31-46節


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  「最も小さな者の一人」。一体そんな人はどこにいるのかと思う方があるかも知れません。私たちはあまり深く考え過ぎると、分からなくなります。

  私は以前泌尿器科に罹ったことがあります。すると先生が、余りしょっちゅうオシッコに行かない方がいい。ある程度溜めた方が膀胱が発達していいと言うのです。しかし溜まったか溜まらないか、気にすると溜まったのか溜まっていないのか分からなくなって、溜まらなくても行きたくなりますって、言いましたら、考え過ぎず、直感がいいと言うのです。

  「最も小さな者の一人」。それも考え過ぎず、直感が大事です。良きサマリア人の譬えで「憐れに思い」とありますが、直感を疑わないことです。直感の中で神が働いておられます。

  大事なのは、聖書に基づく信仰であり、現実の人間に対して真実に生きることです。

  イエスは最も小さな「多くの人」との出会いを求めておられるのではありません。「最も小さい者の一人」です。この「一人」との愛による出会いが大切です。

  社会事業でなく、愛をもってこの「一人」と出会うことから、全てのことが始まります。むろん社会事業がいけないのではありません。社会事業も愛を無視しては社会事業の原点をなくします。

  暫く前、DVの被害にあっている若い女性が土曜日の夜、突然来られました。怯えて玄関で1時間ほど泣いておられました。あまりに泣き過ぎるので演技かと疑ったほどです。

  やっとリビングに上がってもらって聞きますと、まだまだすすり上げながら窮状を訴えられ、深夜までお聞きしました。ひどく怯えていて、一人では怖くて寝れないというので、私が他の部屋に出て行って、妻が彼女の隣のベッドで眠りました。でも、見ず知らずの他人です。夜中にどんなことになるか分からない。妻は眠れなかったそうです。

  翌朝、「礼拝に出てもいいですか」と聞かれました。彼女は有名なキリスト教主義学校の卒業生で、洗礼も受けている人です。むろん出席して貰いましたが、皆さんに顔を見られないようにして出て貰いました。

  問題を抱え苦しむ人と共に歩むのは難しいことです。妻は自分の病気を一言も言わず付き合いました。私も説教の準備どころではありません。でも、神様は色んな重荷を負っている人を私たちの所に送って来られるわけで、これは素晴らしいことです。

  翌日アドバイスして帰って貰いましたが、嬉しかったのは、かなり経って先日、お礼の報告に来られたことです。ある方面で名も知られた人です。男性は更に名が知れています。マスコミではどんなにに著名でも、素顔は私たちには分かりません。色々な問題が解決され、男性とも関係を断ち切れたと喜んでいました。

  でも、そんな人は自分ところに来ない。どこに最も小さい者の一人がいるのかと、更に問われるかも知れません。でも案外身近な所におられるかも知れません。


  教会に登る坂道の角に婦人服のお店があります。お天気の日は、店先に婦人服を数10着吊るしています。お上手にも高級服とは言えません。ところが、道行く婦人の8割以上はチラッと洋服を見るのです。普通の男性にはとうていうかがい知れない、女心を刺激する秘訣を知っているのが50代のこの社長さんです。確かに奥さんたちがよくお店に入って談笑しています。

  花いじりも好きで、猫の額ほどの花壇をうまく利用して季節の花を植えています。よく見ると花壇に小さい水槽があって、かわいい金魚とメダカが緑の藻の中に見え隠れして、20匹ほどが元気に泳いでいます。大都会の道端で小さな生き物を見るのは心なごみます。お花と生き物をかわいがるのも奥さんたちの人気の一つです。

  ある日ごみ収集車の運転手と助手席の人に、お茶を窓越しに渡しているのを見かけました。今日は何かな?と思っていたら、暫くしてまた同じ光景に出会いました。妻に言うと、以前からだと言います。

  熱いだろうと言っては冷たいお茶を出し、寒いだろうと言っては熱いお茶を振るまい、喉が渇くでしょうと言っては何かをあげる。商売でしているのじゃあないんです。いい所を見せようというのでもない。楽しんでしている。そこが彼の輝いているところです。

  隣人は近くにいるのです。彼の親は静岡にいてクリスチャンだそうです。


  Cさんは、妻が日本語教室で教えていて出会った中学生です。それで教会に来た。説教は殆ど分からないのに休まず毎週礼拝に出席し、用事があるので早く帰りますが、必ず献金を託して帰ります。大人でも、献金前に献金を誰かに渡して帰る人は少ない。彼女は休む時は、一週間前に礼拝献金を託します。

  中国から来ているご両親は、日曜日も休まず長時間働かなければ育ち盛りの3人の息子娘を学校にやれない。両親もキリスト者ですが出席できない。それで中学生ですが、家族を代表して彼女は出席しているのだと思います。共に生きたいと願って礼拝に与っています。お兄ちゃんは修学旅行で、いつか教会へのおみやげを買って来ました。

  そういう背景を持っている人が身近にいるのです。ごく隣にいる。キリスト者ですが、異国で生きて日本人キリスト者の知らない苦労を一杯なめています。でも日本人で隣人になろうとする人は極めて少ない。

  私の申し上げたいのは、Cさんでなくても、最も小さい者の一人は、私たちによって発見されることを待っているのです。そしてキリストは、「私はその人である」と言っておられるのです。

  私たちも最も小さい者の一人だったのではないでしょうか。だがキリストによって発見されました。そして愛を、それ以上に深い愛はない十字架の愛を知りました。

  ですからキリストは先ず私たちキリスト者に、「最も小さい者の一人にしたのは、私にした事なのである」とおっしゃって、最も小さい者の隣人になるのを勧めておられるのではないでしょうか。

  この話しは行為義認の話ではない。むしろ信仰に押し出されての行為です。イエスは、その行為へと私たちを引き出しておられます。

  私たちの身近な所で、家庭かも、ご近所かも、教会かも、職場かも知れませんが、実は私たちによって発見されるのを待っている、最も小さな人の一人がいるとおっしゃっているのです。そのことを覚えながら、この一週間を過ごしたいと思います。

           (完)

                                       2010年9月19日

                                   板橋大山教会   上垣 勝

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