ロレーヌさんのとっさの勇気


          イスタンブールの水商人。2階、3階も水の倉庫。水屋があちこちにあって驚きました。
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                                              最も小さい者、キリスト (上)
                                              マタイ25章31-46節


                              (1)
  今日の話しは、25章に出ている3つの天国の譬えの一つです。最後の審判とは書かれていませんが、内容からして世の終わりの裁きが譬えられています。

  最後の審判というと、上野公園のロダンの「地獄門」を思い出す方もおいででしょう。高校を卒業時して18歳の、まだ髪がふさふさだった私は初めてそこを訪れて、何度もその前に佇んだのを覚えています。天才的な、独創的な思想家だと思いました。

  それから約半世紀、ヨーロッパの古い教会などを知った今は、彼は、本来神やキリストが座るべき裁きの座に、「考える人」を置いたという点に彼の新しさと伝統への挑戦がありますが、彼自身が人間主義また啓蒙思想の彼が生きた、時代の産物だと思います。ロダンも、その時代思想を超えることは出来なかったと言っていいでしょう。

  本来神やキリストが座る裁きの座と言いましたが、数百年前とか1千年前に建てられたヨーロッパの古い大聖堂の巨大な正面入口のタンパンと言われる場所に、地獄門でなく「最後の審判」の場面があって、ロダンのもの以上に素晴らしい彫刻があちこちにあります。

  スイスのベルンは首都でありながら世界遺産の町ですが、大聖堂の入口正面にもそれがあります。ただキリストは裁いておられません。天使ミカエルが笑みを浮かべて長い刀を振り上げています。なぜ笑みを浮かべているかというと、ミカエルは人々を惑わす魔物のあごひげをグイと掴んで、今まさに刀を振り下ろして退治しようとしているのです。

  最近顎鬚(あごひげ)を長くした男性にあちこちでお目にかかりますが、そのたびに私は大聖堂のあの場面を思い出します。チョッと失礼なことを言いましたが、最後の審判は人間を誘惑して来た魔物、悪霊、サタンの退治の時だと言うのでしょう。

  ベルンの教会の最後の審判は、そういうメッセージを告げています。そして他の教会のものはまた別の図柄で違ったメッセージを告げている。教会によってメッセージが微妙に違う所が面白いです。

  そうでしょう。同じ都内の教団の教会でも、目指す所は同じですが、少しずつ微妙に強調点が違ったり、メッセージが違う。その多様性があるから豊かですし、素晴らしくあります。一律でないのがキリスト教の良さです。

                              (2)
  今日の聖書は、ロダンの彫刻が表現している思想とは全く違いますが、ベルンの大聖堂のとも違います。人の行いに対する伝統的な報いの思想はあるかも知れませんが、ちょっと違ったことが語られています。単なる功績とか手柄とか、神への功徳と言ったものとも違います。

  羊と山羊のように、キリストの左右に分けられた人たちは共に、「いつ、私たちはそういうことをしましたか」とか、「いつ、しませんでしたか」と言って驚いています。両者とも、神やキリストのためにした、あるいはしなかったという自分の行為に少しも気づかなかったのです。

  今日、色んなNGOなどがしている人道支援環境保護その他の活動も、政府がする活動も大事ですし必要です。PRの時代ではありますが、しかし案外意識的に特に自己宣伝する活動というのは、愛とは甚だ遠い代物かも知れません。むしろイエスが祈りや施しについて言われたように、隠れて行い、右手のすることを左手に知らせない慎み、精神の謹厳さが大事ではないでしょうか。

  右側の人は、最も小さい者の一人に、神とかキリストとかも意識せず、ただ単純に可愛そうに思い、とっさに行なっただけです。

  飢えたり喉が渇く者、旅人、裸、病気、投獄された者などは皆、程度の差はあれ助けを求めている人たちです。そのような人に会った時、彼らは理屈抜きに手を差し伸べたのです。

  しかも水一杯とかパン一個とか、とても小さな業です。本人も忘れてしまうほどの小さなことです。それを、あなたは私にしてくれたとおっしゃりのです。決して大きな業ではありません。イエスはそこに意味があるとおっしゃるのです。

  理屈抜きに手を差し伸べることは社会の仕組みや人間関係がどんなに複雑になっても今も昔も大事なことです。むしろ社会組織が複雑にこんぐらかって、手出しをするのを皆遠慮しがちな社会だからこそ、とっさの勇気が必要です。

  イギリスにいた頃、同じ研修所で暮らしていた、今は高校の教師になっている当時24、5歳のロレーヌという大柄のきれいな女性がいました。

  ある時、妻がシャワー室でシャワーを浴びて部屋に帰ると、間違って部屋の鍵がかけられ締め出されたのです。犯人は私だったようでとんでもない男です。

  寮の連中はみな親しい間柄です。家族とはいきませんが親しく付き合っていました。シャワー室は共用で、大抵女性たちもお部屋でスッポンポンになってバスタオルを巻いてシャワーに行きます。妻も若者たちに倣ってそんな事をしていました。遅すぎる青春を楽しんでいたんです。

  裸の妻は部屋を閉め出されて大慌てです。真冬でした。廊下は暖房が入っていません。仕方なく1階のコモンルームという広い談話屋に行って、そこは暖房が入っているので、そこで震えていたのです。

  そこへ先程のロレーヌさんが外から帰って来て、事情を知るや、とっさに4階の自分の部屋に行ったかと思うと、何と自分の服だけでなくパンティまで急いで持って来て貸してくれたというのです。後から知って、私は妻から叱られながらでしたが、大柄のきれいな姿の彼女が小柄な日本の60過ぎのおばあちゃんのパンティのサイズを少しも考えず、自分のパンティを持って降りてきた姿を想像して、彼女は大胆な素晴らしい方だと思って、私は叱られながら心の中でロレーヌさんをたたえていました。日本人の女性なら、自分が使っているのを持って来れますか。できます?男性でもできません。

  でも先程の聖書に、旅人に宿を貸し、「裸の者に着せ」とあります。彼女は必要なものを大胆に差し出したのです。

        (つづく)

                                       2010年9月19日