バベルの町の片隅で生きる


                        いたって気さくなトルコ人もいました
                               ・



                                              実が熟すのを待とう (下)
                                              創世記11章1-9節


                              (2)
  このようにバベルの町は息が詰るような息苦しい町であったでしょう。ここにあるのは人の力への過信であり、神の座をも狙いかねない振る舞いです。

  この話しの前には、6章から10章にかけてノアの話が続いていましたが、ノアは箱舟から出ると神のために祭壇を築いて感謝の礼拝をしています。だが、バベルの塔の話しには、どこにも神への感謝や賛美はありません。造られたこと、生かされていることへの喜びもありません。技術的過信とそれを駆使して、神とも競おうとする傲慢な姿だけがあります。

  これは現代人の姿でもあるでしょう。世界を造られた方への畏敬や賛美はどこにあるのでしょう。自然の世界遺産はテレビで放映されます。素晴らしい大自然です。だが、まるでそれは人間が管理しているかのような錯覚を与えます。世界自然遺産は人間の財産であって、大自然をお造りになった方への言及、人間も神の被造物であることの謙遜な喜び、命を授けられている喜び。そういうものが欠落して、仮定に過ぎない科学的分析を独断的に紹介されます。放映される度に人がどっと訪れ、自然が破壊されていく。これの社会現象は一体何を示しているのでしょう。

  「全地に散らされることのないように」と、受身形で語られています。自己防衛的な態度です。仮想の敵を作り、それに対抗し、自分たちの同一性を保とうとする人間の姿が表現されています。ここには人間の神への対抗、宣戦布告が暗示されています。

  バベルの物語は、そのような状況に神が介入されるのです。5節で、「主は降って来て、人の子らが建てた、塔のある町を見て」とあります。主は最初は観察者です。だがやがて、彼らの一致は他者に対する権力の行使であったり、弾圧であったり、統制であったり、更に神の座に上り詰めんとする傲慢であると判断されるのです。

  神に敵対して、神が彼らを創造したことに何も応答しない。感謝なし。むしろ自力で立ち、神のようになろうと振舞っている。バベルの塔の物語は、何千年も昔に神なき現代文明を預言しているかに見えます。

  だが、神は人間の愚かな計画が無駄になるようにされるのです。聖書は、「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。…彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないようにしてしまおう」と言われた。そして町の人たちを全地に散らされた。

  そこで神の裁きにより、この町はバベル、混乱と呼ばれるようになったというのです。

  ただ、人の裁きは一方的ですが神の裁きは同時に不思議な恵みを含みます。人々は散らされ言葉を混乱させられましたが、神はそれによって、地上に多くの言語を持つ人種の多様性をお造りになり、コミニケーションを通じて多様な者が理解し合い協力し合う道を用意されるのです。

  ただその道は随分遠回りし、思いがけない良い形で実現されるようになります。ペンテコステの出来事がそれです。それは強制された一致や統制とは根本的に違います。統制でなく、国境や国籍を越え、民族も越えた、異質な者たち多様な者たちの交わりです。あらゆる国民、あらゆる人が持つ個性をそのまま保った一致です。先週申しました「御霊の給う一致」がそれです。それは神の贈り物として受取る時に生まれる「くすしき」一致です。

  ペンテコステの一致は、他を出し抜いて自分だけ天まで達しようとする生き方でなく、キリストにおいて示された共に生きる一致です。

  ただキリストによって実が熟すのを待たなければ、人の力では、いくら力を奮っても御霊の給う麗しい一致は生まれません。バベルの塔の物語は、キリスト抜きの人間の力を過信した一致。従って命令し、号令し、厳しい規制と強制による強引な一致です。それは心の通わない一致、即ち圧制、専制です。そこに罪があります。

                              (3)
  以前少し触れましたが、ハンセン病の人たちに生涯仕えた婦人がありました。明治学院の井深梶之助院長の姪で、両親が離婚したために井深の幼女になった井深八重という人です。ソニー井深大の遠縁にあたります。彼女は英語教師をしていましたが、20代にハンセン病、恐ろしいらい病と診断されて静岡の神山復生病院に隔離されますが、後に誤診だと分かります。大喜びで社会復帰したかと思うと、彼女は社会に戻らないのです。フランスから日本に来て、貧しいハンセン病者のため献身的に働く神父や医者を見て、自分だけ健康になって出て行くわけにいかないと考えます。横須賀に長く社会福祉に携わって来た阿部志郎という方がいますが、ある新聞に井深八重をもう一面から捉えて、すまない、申し訳ない、病者に赦しを乞うために信仰をもって生涯を献げていったと語っておられます。

  ここにも、他を出し抜いて生きるのでない、神様によって示された共に生きる姿があります。イエスこそ共に生きる、共生を生きた方でした。イエスは天を目指したのでなく、地を目指し、世に来て、世と共にあろうとされました。井深さんはその生き方へと献身して社会福祉の道を拓かれたのです。

  阿部さんはこんなことも書いておられました。早稲田の創立者大隈重信は、外務大臣時代に襲撃されて片足を切断します。長期療養のときに学生4人が看護したそうですが、彼らに大隈夫人は、「患者の意を迎え、声なきを聞き、姿なきを見る」と意味深いことを教えたというのです。意味深い言葉です。

  「患者の苦痛を心で察し、言葉にならない訴えを聞き、目に見えない大事なものを見る。」ここにも共に生きるあり方があります。

  巨大なバベルの塔現代社会はあちこちにバベルの塔が築かれていますが、バベルの塔は決して天に達することはありません。ただ、天にまで達したとうそぶく人たちがいるだけです。

  私たちは、現代というバベルの町に生きているのかも知れません。しかし、バベルの町の片隅で、バベルの町に欠けているもの。イエスが示された共に生きる生き方。人間は一人ひとり、神がこの世に送られた人間としてイエスが大事にされた生き方を尊んで行きたいと思います。

  バベルの物語は厳しい社会批判です。ただ社会批判だけをするのでなく、この社会が見落している大切なことに目を向け、その欠落した部分を生きたいと思います。

         (完)

                                        2010年9月12日


                                板橋大山教会   上垣 勝

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