光の中に身を置くとき
ガラタ橋からイスタンブールの新市街のガラタ塔を眺む
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実が熟すのを待とう (上)
創世記11章1-9節
(序)
今日は75歳以上の皆さんの祝福式をすることができて大変嬉しく思います。この祝福は、主がじかにして下さったとお考え下さい。
私たちは悩みのない者ではありません。色々と悩みを抱く者です。特にご高齢になれば色んな弱さや脆さを人知れずお持ちのことかと思います。イエス様は、「あなたがたは、この世では悩みがある」とおっしゃいました。イエスは私たちが口に出して言わない悩みも苦しみも、唇に上る前によく知っておられます。「あなたがたは、この世では悩みがある」とは、そういう背景のもつ深みある言葉です。
暫く前に、渋谷で沢山の警察官がいっせいに中高校生を補導したそうです。約1000人が補導されたとのことです。しかし親に連絡したものの、子どもを迎えに来ない親が何人もあったということです。今、家族から捨てられている子どもが増えているのでないでしょうか。
だが、家族から捨てられているお年寄りも増えているのではないでしょうか。
特別養護老人ホームの入居を待っている人が40万人もおられるそうで、特養に入りたいということは家族にかなりの負担がかかっている筈です。中には家族に捨てられかかっている方もいるかと思うと本当に不憫です。
「あなたがたは、この世では悩みがある」とは、こういう暗いこの世の現実の悩みの中でのお言葉です。
だがイエス様はそれに続けて、「しかし、私は既にこの世に勝っている」と語られました。既に私たちのために闇の力に勝利して下さっている。これは若い人たちにも言えますし、お年を召した方々にも言えますが、どんなに闇が力を奮い、罪が力を奮っても、闇も罪もどんな現実も私たちを打ちのめすことは出来ない。表面的には力を奮っているが、既に闇と罪の根は根こそぎされている。「私は既にこの世に勝っている」はそういう根本的な所での勝利です。
先週の祈祷会で、発表者の奥村さんが、「光の中で耐えられるものとなる」という言葉を引用されました。
私たちは弱さの中にいると、この先耐えられないのでないかと思ったり、非常に悲観的になったり、先の事を思い煩ったりします。だがイエスの光の中に身を置く時、「光の中で、耐えうるものになる。」私はその言葉を、そういう風にお聞きしました。
「すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう」とおっしゃる方があるので、耐えられるものになるのです。キリストの光の中に身を置く時、耐えられるものとされるのです。
(つづく)
2010年9月12日
板橋大山教会 上垣 勝
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