異質な人とも肩を組む


                           イスタンブール (1)
                               ・


                                              一致と伝道 (下)
                                              ヨハネ17章20-21節


                              (4)
  先程の13章の言葉にもありましたが、「互いに愛し合うこと」、これはイエスが命じられた最も中心的な生き方ですが、この互いの愛は信仰者の試金石です。この愛を欠いた信仰は熱を欠いた太陽のようなもので、そういう太陽はあり得ませんし、もし熱を欠けば地上の生物は死んでしまうでしょう。きつく言えば、もし私たちが互いに愛し合うことを失うとしたら、教会はすべてのものを失うでしょう。

  神に信頼し信仰を生き抜くことは、何よりも信仰者の間に信頼を創り出し、交わりを創り出し、対話を創り出すのです。

  私たちの教会にも、いつも教会に交わりを創り出そうと骨折ってくださる人たちがありますが、本当に大事なことをして下さっていると思います。そのような人たちの隠れたお働きがあって教会がホッとできる、温かいものになっています。私たちも習いたいものです。

  教会はキリストの体と言われていますが、体の内に分裂があってどうして一つの生命体でありうるでしょう。しかしまた、一つであろうとして、教会を引き締め、統制と言わないまでも教会を画一的にしてしまってはイエスの意図から逸れてしまいます。

  教会は伝道が大切だから、伝道のための戦闘集団にしなければならないという考えがあります。そのために神学的に先鋭化し、一致団結させ、従わない者はいわば除いていく。そうなると先鋭化はできるでしょうが、豊かさや幅、そして穏やかさやキリストの平和の香りが薄れます。

  教会は「キリストの体」と言われるのには、深い意味があります。体ということは、手と足、目と耳などが、互いに働きも形も違いますが、違いがありながら一致するので全体の体が生きて働きます。神は違いを造られ、違うものの存在を許され、違いが返って豊かさになり、この多様なものが共に一つである体に仕えるから、私たちの体は生命体として美しいのです。この豊かな多様性が生命体の命です。

  22節では、「私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです」とイエス自らが祈っておられます。イエスの祈りに従えば、私たちも個人的な日々の祈りにおいて、一致のための祈り、一致に向う祈りが求められるでしょう。

  一致に向うとはどういうことでしょう。それは異質な人とも肩を組むことです。異質な人とも口を利き、挨拶し、一杯の水を差し上げ、愛することです。即ち和解を創り出して生きることです。私たちの身の回りの人々に愛の目を注いで生きる。それは社会を活気づける美しいあり方です。

  聖書の後ろの方にフィリピ書というのがあります。パウロはフィリピの教会に手紙を当てて、あなたがたはフィリピの地域で、「命の言葉を堅く持って星のようにこの世に輝いている」と書きました。恐らくそれは、異質な人とも肩を組み、周りの人たちに愛の眼差しを注ぐ、優しさの極みとなった教会だったのではないでしょうか。優しさの極みを通してキリストが輝いたのです。単にキリストの言葉が輝いたのでなく、キリストの言葉が生きられて輝いていたのです。

  ただ、ここでも私たちは誤解してはなりません。根っから愛の人だから周りの人に愛の目を注げたというのではありません。そうではなく、イエスに導かれ、訓練されてそうなったのです。

  訓練と申しましたが、今日も出席しておられるある方が聖書を新しくされました。先日、表紙の裏にみ言葉を書いて下さいと大型聖書を渡されました。書かせていただきましたが、そのお礼のお便りを見て驚いたのです。その方は、今お幾つですか…。80歳を越えておられる…。だが今、「新しい大型聖書で『み言葉』により本気で祈るようになりました。出発は一層なものになりました」と書いて来られたのです。

 80代になって、大形聖書を新しく買って読もうとされている。その心意気に私は打たれました。私など、もう今の聖書を死ぬまで使おうなんて考えていますが、おっと待った。そんなことじゃあいけないと叱られた気がしました。「もう先がないから」と考えていちゃあ生き方が消極的になります。私などは新しい服を買うのさえ、もう何回外に着て行けるかと思ってためらいますが、もっとバンバン新調しなくっちゃあなりませんね。

  それはともかく、私たちは何才になっても心意気をもって自分を訓練しなければなりません。それは、異質な人とも肩を組み、和解して生きることにもつながるものだと思います。

                              (5)
  脱線しましたが、最後に、この一致は理想ではないということを申し上げたいと思います。理想は必ず落胆を生みます。

  イエスの説かれる一致は、既に父と子の間に存在しているのです。父と子と聖霊の間に存在しているのです。

  人間は互いに違った個性や人格を持ちつつ、イエスは、この三位一体の交わりへと私たちを招いておられるのです。それは私たちが工夫し、指示し、命令し、先鋭化を創り出す一致ではありません。そうではなく、「御霊のたまう、くすしき一致」です。御霊が創り出してくださるからキリスト教の一致は人間を超えて美しい一致になります。

  キリストがあがめられる時、御霊が私たちを一つにして、くすしき一致を授けて下さるのです。神が一致を創り出してくださるのです。

  この美しい豊かな一致がある時、キリスト教会の伝道は喜ばしいものとして進められるでしょう。いや、人々は教会に向って走って来るかも知れません。

          (完)


                                            2010年9月5日


                             板橋大山教会   上垣 勝

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