葛藤を超えた愛


                     イスタンブール、アヤ・ソフィアのモザイク (1)
                               ・


                                              一致と伝道 (上)
                                              ヨハネ17章20-21節


                              (1)
  今日も可愛い赤ちゃんが何人かお母さんと礼拝に出ていますが、すくすく育っている子どもの成長は親にとって楽しみです。だんだん大きくなる中で、親が経験しないことまで子どもが経験して来て、親を楽しませてくれる場合もあります。

  では教会の成長とは何でしょう。例えば人数の増加や規模の拡大、教会が開いている集会の多さという事になるのでしょうか。商店や会社の場合は確かにそうです。

  今日の箇所を見ると、イエスは教会の成長をそういう所でなく、弟子たちの間の一致にかかっていると考えておられたように思われます。ですから21節でイエスは、「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、全ての人を一つにして下さい」と祈られたのです。

  しかもこの一致は、「あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように」とあるように、父なる神とキリストとの交わりの中、ですから非常に深い所に一致の根拠があると言われるのです。いわゆる父と子と聖霊の三位一体の神様のふところにキリスト教の一致の確かな源があるということです。

                              (2)
  そして、21節は続けて、「そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを信じるようになります」と祈られました。

  イエスの弟子たちが分裂せず、一つであること、共に和合し、信頼し合って進むこと。それは「世が信じるようになる」ために欠かせないことだと考えておられると言っていいでしょう。

  言葉を換えて言えば、「全世界に出て行って、全てのものに福音を宣べ伝えよ」とお命じになったイエスの福音伝道は、私たち信じる者が和解し一致することなしには進まないし、成り立たない。和解の福音を宣べ伝えておきながら、信じる者らが和解しようとしていないなら、その真理性が問われることになるということです。言葉と行為がちぐはぐですから、当然そういう輩の言葉は信用なりません。

  これは既に13章で、「互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによって、私の弟子であることを、皆が知るようになる」と語られたことと符合しています。

                              (3)
  ですから、キリスト教会の伝道が喜ばしく真実をもって行なわれるには、一致を目指しているという事実が大変重要なことです。伝道を掲げる教会は、この2つに同時に誠実であるように求められるのです。一致と伝道は、南極と北極のような対立する2つの極ではありません。二つを切り離してはなりません。1枚のコインの両面のように、一致と伝道の2つを結び付けて大事にしなければ意味がなくなるのです。

  妻と夫が、子育ての視点で大まかにでも一致していなければ子育ては大変難しくなります。友だちと仲良くしなさいと言っても、自分たち夫婦が仲良くしていないならその言葉は意味を持ちません。それと似ています。

  教会の中に一致が強まれば、教会の証しの内実に真実が生まれますから、この一致は伝道ともなって必ず朗らかに豊かに成長しますし、歴史の中に大きく枝を張り多くの多様な者たちが安心して宿るものになるに違いありません。一致が生き抜かれる時、それは人々に喜びを与えるものになります。一致がある所には、キリストの大らかな香りが漂います。

  ただ申し上げたいのは、真実な一致というのは最初からそこに所与としてあるのでなく、戦い取られるものです。ある人が根っから柔和な一致の人だから、一致を目指すのではありません。そうではなく、イエスに導かれ、訓練されてそうなるのです。

  日本人ではありませんが、私の尊敬するある方のお母さんは、子どもたちに生きる喜びと心の優しさを証しする人だったようです。彼女はあらゆる人に寛大で親切で、家庭では、他への嘲りの言葉や裁きの言葉が聞かれることはなかったそうです。

  この方は子どもたちを深く信頼していましたから、子どもらが厳しい試練を受けて自分を信じられなくなっても、「あなたは自分自身を信じていいのです」と語って自信を与えたそうです。9人の子供たち全員をそのように育てたそうです。

  そのためこの方の周りにはいつも穏やかな平和の香りが薫っていたそうです。

  どうしてでしょう。これが重要ですが、それは彼女が過去に経験した厳しい試練に由来していたのです。それで、何か困難が起ると、しばらく心が静まるのを待つようになられたそうです。そして一息入れ気持ちを調え、暫くして、まるで何も起っていないかのように、ただ単純に何か他のことに話題を変えたそうです。彼女は少しも熱狂的なところがありませんでした。しかし心の根底に非常に深い喜びが流れていたそうです。彼女の家系は宗教改革以来約500年ずっと続く牧師の家庭でした。

  彼女はいつも満ちあふれた平和を保持しているように見えたのです。しかし彼女はある時、一人の子どもに向って、「あなたは、お母さんはいつも心の内に平和があると考えているでしょう。でも違うの。ひどい戦いがあるのよ」と語ったそうです。

  都心を歩いているとさすがは東京ですね。上品で美しい、お化粧も上手な美形の人によく出会います。私はそれを楽しみに歩いているわけではありませんが…。しかし、試練を受けその中で美しいお顔になった方が時々おられますが、それは内側から輝く美しさです。生物的な肌の美しさでも厚化粧の美しさでもない。心と精神の美しさが滲み出ています。

  心の平和も一致を創り出すことも、自分との戦いによって生き抜かれ、戦い取られたものである時に価値が出てきます。愛には内なる葛藤があります。葛藤のない愛などありません。それは愛の何たるかを知らないからであり、愛のために苦労し、血を流したことがないからです。

  イエスは、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」とおっしゃいましたが、人間は気に入らぬ者は避けたいものです。ましてや敵や迫害する者に対してはそうです。ですから敵を愛するには葛藤があり、その葛藤を越えて始めて愛することができます。愛にはそういう苦しみがあります。自分と戦って戦い取られた愛や平和や一致でなければ、本当には信じることはできません。

  イエスがこんな罪の深い私たちを愛して下さるのも、ご自分と闘い、葛藤を超えて愛して下さっている面があると思います。ですからそれは偽善でなく本当に真実な愛になっています。

  話は逸れましたが、ともかく、今日の所でイエスがおっしゃる一致は、教会の根っ子、礎となるものだと言っていいでしょう。

           (つづく)

                                            2010年9月5日


                             板橋大山教会   上垣 勝

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