キリストの体に属する喜び


                      イスタンブールのアヤ・ソフィア教会。
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                                              キリストの体に属する喜び (上)
                                              コロサイ1章24-25節


                              (1)
  パウロは、「今や私は、あなた方のために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」と書いています。

  獄中にあり、その不自由にも拘らず、また何よりも今にも命を奪われるか知れない恐れが漂う中で、コロサイ教会のため福音が前進するために労を惜しまなかったのです。

  パウロは、コロサイ教会がグノーシス思想の犠牲になって、肉体をもった現実生活を重視せず、地上の生活が空しく、無であるかのような現実離れした考えに陥らないように。キリストは「地上」に来られ、「世」を愛し、「肉体」を持った生き方を真剣に送られたことを、心を砕いて説こうとしたのです。彼はコロサイ教会のことを他人事として見過ごしにできなかったのです。

  去年から教会に見え始めて、最近やっと何の難病かが分かって治療が始まったAさんのために、数週間前から皆さんがお祈りくださっていますが、それは、他人事とは思えないからでしょう。コロサイ教会は信仰的な問題ですが、パウロは決して見過ごしには出来なかったのです。

  彼は、「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」と言います。

  むろんキリストの十字架の苦しみは、人を救うのに不十分であるという意味で言っているのではありません。人の罪を贖うキリストの贖罪の働きは十分であって、パウロがそれを補うとか、私たちが補わなければならないとかいう意味ではありません。キリストにおいて、すでに救いは実現しています。

  しかし、ここで言われる「キリストの苦しみ」は、キリストが現在、キリストの体である教会のために苦しんでおられる苦しみのことです。現在の教会が受けている苦難は、今もキリストが苦難を受けておられることと同じですが、そのキリストの苦難に自分も与って、何とかして「救われることを待ち望んでいる。」フィリピ書3章にもある生き方をここで語るのです。

  前の教会に優れた外科医がおられました。福井大地震の時、外科手術中でした。激震の揺れの中で電気が消え、器具がひっくり返る中で手術を続けて成功しました。その方は、人々の苦しみをキリストの苦しみと考えて、いわばキリストの苦難に与り、欠けを補いながら福井の医療向上のために尽くされました。ですから、私たちは色んな形で、キリストの苦しみの欠けた所を補うことが出来るのだと思います。

  しかもパウロは、「あなた方のために苦しむことを喜びとし」ますと書くのです。

  これは凄い事だと思います。私たちは自分が可愛いし、自己本位ですから、少しは人のために役立つこともしますが、それも自分のためであったり、自己満足のためであったりします。

  ですから、私たちのために真剣に苦しまれたキリストの愛に深く感動しなければ、こういう言葉は出てきません。人工の泉は涸れやすい。しかしパウロは汲めど尽きないキリストの愛を受けて、「キリストの苦しみの欠けた所を身をもって」補うのを「喜びとし」ますと語りました。嬉しくてならないのです。キリストのために役立つことが光栄なのです。

                              (2)
  こうして25節でも、「神はみ言葉をあなたがたに余す所なく伝えるという務めを私にお与えになり、この務めのために、私は教会に仕える者となりました」と語りました。

  パウロは実際的な人間ですから、コロサイ教会はじめ、フィリピ教会、コリント教会、ローマの教会、エフェソ教会など個々の諸教会のために具体的に仕えました。しかし、パウロは個々の教会だけでなく「キリストの体である教会」という一つである全体教会のために仕えました。

  それは世界的、全体的、普遍的教会です。今の教会だけでなく、代々にわたって地上に存在し、未来にわたっても存在し続ける神の全体教会のために仕えたのです。

  実際キリストは教会の基となり、個々の教会はキリストの幹に連なる小枝として存在します。言葉を変えて言えば、教会というのは、「み子の支配下に」(13節)ありますし、「全ての点で主に喜ばれるように、主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知る」(10節)ことを願っている群れが教会です。

  パウロの喜びは、世界的、全体的、宇宙的に広がるキリストの体に属する喜びでした。

  今日は「キリストの体に属する喜び」という題です。私たち個々人も、大山教会や日本基督教団にのみ属するのではありません。神の世界的、普遍的、全体的、更には宇宙的なキリストの体に属しています。またそういう中でこの世での役割を一人ひとりが必ず与えられています。

  これは自分の努力でそうなったとか、ふさわしい者だからその資格があるというのではありません。ただ神の恵みにより、キリストの十字架と復活の恵みによってキリストの体に属するという光栄に与っているのです。

                              (3)
  すでに1章19節で、「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子のうちに宿らせ」とありました。また2章9節に、「キリストのうちには、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形を取って宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです」とあります。

  神は全世界、全宇宙に満ちておられ、空間的にも時間的にも、また心や精神という内面の世界をも霊的に満たして満ち満ちておられる方です。神の霊のおられない場所や空間、時間はありません。どんな次元にも神の霊またキリストの霊は満ちています。そしてキリストの体である教会は、「全てにおいて全てを満たしている方の満ちておられる場」(エフェソ1章)であり、私たち個々人はキリストの体に属して、誕生から死に至るまで全生涯はキリストの愛の御手の中に満たされ、その御手の内にしっかり受け止められて属しているのです。

「全てにおいて全てを満たしている方が満ちておられる」とは、そういうことです。パウロは、このように世界に満ち、歴史の中にも満ちあふれ、いかなる次元の中にも無限に、永遠に満ちておられる神、キリストの体に属する喜びに生きたのです。

           (つづく)

                                          2010年8月15日


                             板橋大山教会   上垣 勝

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