希望の小道があります


                       ベルンにあるスイスの国会議事堂。
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                                              ライバルや競争でなく(下)
                                              Ⅰコリント2章12節


                              (2)
  さて12節は、「私たちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです」とありました。

  私たちがキリストの福音を信じたのは世の霊でなく、神からの霊を受けたからだと語ります。そして、その霊によって、初めて「神から恵みとして与えられたものを知るようになった」と書きます。言葉を変えていえば、気前よく自由に私たちにお与えくださる神の恵み、神がくださる賜物は神の霊によってしか正しく認識することはできないということです。

  神の霊によってしか正しく把握できない恵みですから、この世の霊や思いで考えれば、単なるキャッチフレーズになってしまう。形骸化が起る、お題目を唱えるだけになってしまう。

  彼は、神の霊のことを、「神秘としての神の知恵」という呼び方でも語ります。またその霊は、「神の深みさえも究め」る霊であるとも言います。聖霊は、神の心を教えてくれるということでしょう。その心を知れば、単にキャッチフレーズを唱えることで終らないからです。

  神の心はキリストにおいて最もよく表れています。中でもその十字架の愛において現れています。ですから神の心を知れば、信仰が隣人との関係において生き抜くという、現実性を持つものとなる。即ち信仰が愛という形を取ってきます。頭や言葉だけ、口だけのものでなく、生活の中に信仰が表われる。神の恵みの力は、私たちの存在全体の深い所から創り変えていくものになります。

  では、神の霊によって神の恵みを知るとか、神の恵みとして与えられたものを知るとはどういうことでしょうか。聖霊は神の恵みを私たちにどのように知らせるのでしょうか。


  1) 先ず第一に、神からの霊である聖霊は、私たち自身が神によって特別目をかけられ、「神に取り上げられた存在である」(H.ナウエン)ということを知らせます。

  あなたは永遠の昔から神の心の内に存在していた、「尊く、限りなく美しく、永遠に価値ある存在として愛の眼差しで見られていた」ということです。

  今日はお休みのBさんからメールが来て、1歳8ヶ月のA君が初めて言葉を発したそうです。ご飯のお釜を開けて、「ンハン」とか「オッハン」と言ったそうです。最初の言葉がパパ、ママでなかった。そうBさんは書いていました。ところがしばらくして第2信が来ました。「先ほどは違いました。何日か前、『Cッチャン』ってお姉ちゃんを呼んだみたいで、思わず私たちは振り向きました」ってありました。

  さすがはお母さん。価値ある存在として、愛の眼差しで見ています。生まれて初めての言葉が「ごはん」じゃあ、将来どんな人になるか案じられる。しかし、お姉ちゃんを呼んだ。麗しい兄弟関係をつくる心を持っている。将来が楽しみです。

  この世的な霊で見れば、君などは他の人と比べればあまり価値がない。能力もない、魅力もない、実際君の真価は実に低い、何時駄目になるか分からない、と見られてしまうのが落ちかも知れません。派遣切りで切られる人たちは深刻な悩みの中にあります。

  だが、神の霊は私たちをそう見られないのです。世の見方に抗って、私たちを神に愛されている、失われてはならない者としてご覧になります。1章には、あなたがたは世の無きに等しい者や見下げられている者であったが、神に「選ばれたのです」とあります。

  それが、「神からの霊を受けました」と語り、「それで私たちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです」と12節が語ることです。

  2) あなたが特別目をかけられている、選ばれているということは、他の人を排除することではありません。除外でなく他の人を含みます。「価値がないからと言って除くのでなく、その人の独自性を受け入れます。」

  ライバルや競争ではありません。人が生まれ、神によって生かされているのは、ライバルを作り競争するためではありません。家庭の中にも競争が入って来ますが、競争でなくもっと偉大な生き方のためです。

  13章の冒頭で、「あなたがたに最高の道を教えます」という言葉を受けて、愛の道を語るのがそれです。

  コリント教会の中に分裂が起っているのは、神の霊を人間的に考えているからであって、神の恵みの賜物は、自分を誇って人に敵対したり、競争したりするためにはない。むしろ共同体を作るため、愛の共同体の形成をするように促します。共に生きること。共生の道です。先週申しました、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」あり方です。

  3) そして最後に、神の恵みを知るとは、自分が神によって目をかけられていることを感謝する。喜ぶ。光の中に置かれていることを、どんな時にも敢えて喜ぶ。

  すると物事に積極的になり、前向きになります。神の恵みが背後にありますから、ドンと構えた大らかな前向きが生まれるでしょう。神の恵みを知ると、私たちが最低の所にいても、神の恵みが届いていることを敢えて喜ぶことが生まれてくる。どんな道なきところにも拓かれた「希望の小道」があるからです。

  ある人が「希望の小道」という本の中で祈っています。「慰めをお与えくださる神さま。私たちが、あなたがおられることを何も感じない時ですら、なお、あなたはそこにおられます。あなたの存在は目に見えません。だが、あなたの聖霊はいつも私たちの中におられます。」(ブラザー・ロジェ「希望の小道」)

  こういう恵みが分かってきます。神の霊はこういうことを認識させてくださる。

  4) たとえ理解した福音は僅かでも、それを生きることが大事です。生きられるとき、恵みの深さをさらに知るようになります。

  イエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われました。神は、私たちが神の存在を反映し、自分が与った福音の希望を持ち運ぶ者であることを望んでおられます。恐れることはないのです。むろん私たちは自分の弱さに気づいています。だが、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われるイエスに信頼して歩むのです。また、神の霊は喜びをもって、神に委ねる者の生きざまを創り変えて下さるのです。

  これは業や行為による救いとか、律法による救いとは違います。人の霊でなく、神の霊は私たちの生きざまを実際に変えて下さるのです。

  ですからパウロは、「私に倣う者になって欲しい」と語り、また「キリスト・イエスに結ばれた私の生き方を思い起こして欲しい」と語るのです。

  一言で言えば、神の霊である聖霊は16節にあるように、「キリストの思いを抱」かせます。キリストの思いですから、自分中心的に見ないのです。神を仰ぎ、神の栄光を表わそうという思いになる。

  遂にHさんからメールが来なくなりました。先週3人でお訪ねした時はまだお元気でしたが、翌日頃から抗癌剤のせいでガンと体力が弱ると医師から言われていましたが、その通りになったのでしょう。3年かかってやっとAL型アミロイドーシスという難病だと分かり、初めて専門医にかかることが出来ました。幸であったのか不幸であったのか一概に言えませんが、何に立ち向かわなければならないかやっと分かったと、Hさんは喜んでおられます。

  しばらく前にお訪ねした時、「私は証しをして逝きたい。証しをしないでは命を終りたくない」と言われました。深刻なお顔でなかったので、心に留めなければサッと聞き流す言葉でしたが、2度言われました。私は重く重く受け止めました。

  Hさんは今最低の所におかれています。でもそこに「希望の小道」があると確信し、そこで神の栄光を現したいと考えておられるのです。神の霊によってそういう大事なところに導かれておられます。私は皆さんに、ぜひHさんのことをお祈りしていただきたいと思います。

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  この手紙を読むと、パウロが彼らを援助したい気持ちが随所に現れています。しかし、私は原文をすらすら読めませんが、原文から受ける印象は、私たちが考えるよりもずっと命令的でないと言われます。これは驚くべきことです。彼は新しい規則を持ち込んだり、押し付けたりしません。

  なぜなら、コリントの信徒たちが各自自分で「神からの霊」を受け、一人ひとり「霊に教えられ」、主体的に「神秘としての神の知恵」に導かれて生きて行って欲しいからです。

  神の霊はフィリピ書の言葉で言うなら、「何が重要であるかを判別する」洞察力でもあるからです。それを身につけてもらいたい。「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れる」だが、「決して滅びない」まことの愛にあって進んで欲しいからです。

        (完)

                                         2010年8月8日


                             板橋大山教会   上垣 勝

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