コリントの町と教会


                    スイスの国会議事堂に接した家。議事堂のテラスから。
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                                              ライバルや競争でなく(上)
                                              Ⅰコリント2章12節


                              (1)
  コリントはアテネの近くにある大きな港町です。経済活動は活発で、東西に港があって東の港はアジア方面から、西の港はヨーロッパ方面から船が出入りするローマ帝国随一の商業都市でした。

  アテネのように哲学や思想の町ではありませんが、商業の町といえギリシャ文化の町ですから高い教養を備え、知識を持つ人たちが多くいたのは当然です。

  その彼らにパウロは、「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を高める」とこの手紙で書いて、愛のない知識を誇る人たちの問題を指摘しました。13章で愛の賛歌が歌われるのは、知識を誇る人たちが問題を起こしたからで、知識を誇る人の空しさ、いや、信仰さえ誇る人の空しさを語るためでした。

  知識ある人は確かに、パウロが説いた福音をよく理解したように見えました。

  3章に「私は植え、アポロは水を注いだ、しかし、成長させてくださるのは神です」とあります。これは、パウロが先ずコリントに伝道し、アポロがそれを引き継ぎ、神が成長させてくださったコリント教会の短い歴史が反映されています。

  ところがアポロがコリントを去り、入れ替わりに他の説教者たちが入って来ると、コリントの人たちの心に混乱が起りました。

  教会に党派が生まれ、パウロ批判も現われ、その上経済の町コリントの悪い風習が教会の中にも入って来て、とうとうパウロに手紙を送ったのです。信仰生活のあり方について不明瞭な点に光を当て、信仰にどう生き、どう祈るべきかを教えて欲しいと乞いました。

  そこで彼はこの手紙を書き送りました。ですからこの手紙は、ローマの信徒への手紙のように理論的でなく、様々な実際的問題が扱われたのです。

  彼は、自分の意図から離れて一人歩きしていた幾つかのキャッチフレーズを取り上げています。例えば、「全てのことは許されている」、「食物は腹のため、腹は神のため」、「私たちは知識を持っている」、「性的関係を持たない方が良い」などです。

  私たちも誤解されることがあります。ただその場合、こちらの言い方が悪かったり、言葉が足りなかったりする場合もあります。ともかくパウロの言葉が誤解されて出回っていた。彼はこれらの問題に向き合いながら、キリストに従って生きるとはどういうことか、広範囲にわたって議論を深め、真剣に答えました。

  今日は、その中の一点、一節だけを拾い出して、み言葉に耳を傾けたいと思います。

  ただ前後関係も大事ですから、長いですが2章全体を読みたいと思います。

  「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。

  しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。

  この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。

  “霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。

  自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。『だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。』しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」(Ⅰコリント2章1-16節)

      (つづく)

                                          2010年8月8日


                             板橋大山教会   上垣 勝

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