砂漠の隠遁者もキリストの体


                    氷河鉄道は遠方のアルプスの山の向う側を走っています。
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                                              8月、平和を願う人へ (下)
                                              Ⅰペトロ3章8-12節


                              (2)
  8節で、「皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい」と語ります。

  心を一つにして、一致を求めなさいと言うのです。一致するために敵を作ることは、中学生頃の友だち関係を見ているとしょっちゅう起っています。まだ未熟ですから、そんなことをして友だちを作ります。いや、大人だってそんな事をする人たちがあります。だが本当の一致は、誰かを排除し誰かを敵に回して一致を作り出すものであったり、敵に対抗するために一致を作り出すものであったりしてはおかしいのです。それは偽の一致です。

  ですから、あらゆる事に同一意見を持たなければならないというのではありません。一致は画一ではありません。むしろ違った豊かな意見が大切にされる時、そういう余裕がある時、心が一つになります。あの人も、この人も、こんな考えの人も含めることができているということで、皆、心が一つになります。

  別の言い方をすれば、聖霊は私の中にも働いておられると共に、他の人たちの中にも働いておられることを信頼することを意味します。この信頼がなければ一致は起りません。真理のカケラが他の人たちにも、自分にもあることを認めて、信頼し合うことです。自分達は真理である、真理の全体であると思うと、他の意見の人を排除します。しかし、今日の所にもあるように、謙虚に、真理のカケラと考える。そして他の人を受け入れる。ですから、たとえ聖霊を信じるだけであり、具体的なその徴がなかなか見出せない時でも、相手の中に聖霊が働いておられることを信じていくのです。

  「皆心を一つに、同情し合い」とありますが、お互いの愛は、共感と憐れみという形で表わされます。他の人の幸せを共に喜び、困難の中にある人と共に苦しむことは、私たちの心を一つにするでしょう。ローマ書の、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」これは、平和を真に欲する人の生き方と言えます。平和をつくることは普段の生活の中にあります。

  私はむろん、社会的に平和を構築していくことの大事さを考えています。それがないと、いくら個人的なところで平和を生きても焼け石に水のような所があります。ですから制度的な平和構築は、地域でも国のレベルでも、国際間でも非常に大切です。しかし、それだけでなく、今お話している人格的な平和づくりも欠かせません。二つは互いに相補的な関係にあります。

                              (3)
  「憐れみ深く、謙虚になりなさい」ともあります。「謙虚」な心とは、相手を仕えるに値する人であると考える所にあります。仕えるに値しない人と考えれば、必ず乱暴になり、冷たくなり、あげくの果ては敵意さえむき出しにするでしょう。

  また、平和を求めるとは、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いないこと」です。人を悪く見る人は、平和を願うことにはなりません。「舌を制して悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず。」この強い意志を持つでしょう。

  私は若かったころ、社会批判をすれば平和運動をしているような錯覚がありました。しかし平和を作り出す歩みは、人や社会を批判するような一方的なことではありません。むしろ「兄弟を愛し…謙虚になり…侮辱をもって侮辱に報いず、返って祝福を祈る」ことです。自分との戦いが背後にあります。

  「平和を追い求めよ」とは、こうして追い求め続けることです。

  今から30、40年前ですが、先ほどのベトナム戦争が終わって暫くして次に、カンボジアの内乱が起りました。当時何が何だか分からない内戦でした。結局10年間ほどのポル・ポト政権下で170万人程の大虐殺が起りました。現在も実体が分からないほど闇に包まれた虐殺でした。

  先週やっとその大虐殺の裁判が始まりました。先週は悪名高い政治犯収容所の所長の裁判でした。その収容所は、政治犯を自白させて裏切り者や敵を大量にあぶり出しました。で、自白のために拷問を加えます。そして自白すると秘密を守るためにその人を密かに殺したのです。そして次に、自白で得た政治犯を捕え、拷問で仲間を更に自白させて殺害しました。政治犯を殺す時は、将来の報復を防ぐために、その妻子も皆殺ししました。

  報復の恐怖から皆殺しし、次々殺して遂に170万人に膨れ上がりました。権力闘争、疑心暗鬼、報復の恐怖。これが歴史上前例を見ない、恐るべき暗黒のポル・ポト時代を作り出したのです。

  だがキリスト者は、やられたらやり返す、攻撃されれば報復するという、悪の循環を断つために召されているのであって、傷を受け屈辱を受けたことを人から人に伝え、世代から世代に伝えて、報復を伝えるために召されているのではありません。歴史の事実を伝えても、恨みや怨恨を後世に伝えるのではありません。

  過去を忘れるのではありません。忘れるのではありませんが、赦すのです。赦しは受身であることとは違います。むしろその反対です。赦しは悪に対する一種のレジスタンス運動、しぶとい抵抗運動です。自分の所で悪を止めるのです。それは恐ろしい伝染病が拡大していくのを自分の所で食い止める壮絶な闘いです。

  ですから、「返って祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」とあります。「祝福を祈る」とは、傷が大きくならないために、包帯で傷口を縛ることを意味します。

  ロンドンの街を歩いていて偶然ナイチンゲール銅像を見たことがあります。彼女はクリミヤ戦争で敵味方なく傷病兵を手当てしたと言われ、彼女は「クリミヤの天使」と呼ばれるようになり、そこから「白衣の天使」という看護婦たちへの言葉が生まれたようです。だが、ナイチンゲールは天使と呼ばれるのを喜びませんでした。こう言っています。「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である。」

  「返って祝福を祈りなさい。」そこには苦悩する者のために傷口を縛るような血みどろな戦いがあります。

  そのようにして傷口から流れ落ちる血を止め、傷が癒されるのを忍耐強く待つのです。

  いつか遠方から、あるご夫婦を迎えて遅くまで話したことがありました。そこで思ったのは、背伸びをしちゃあいけないという事。また、神様は愛されているのだから、神様の働きを信じて、劣等感は神に預けて、自分らしく生きるということです。

  話しはチョッと違いますが、非常に寂しい所で生きている、砂漠の隠遁者と言われる修道士たちが世界にはいます。古代からそういうキリスト教の修道士たちがいましたが、現在もいます。

  ある若い女性が、多くの若い人たちが固まって楽しく過ごす所から離れて、孤独な仕事をしなければならなくなりました。彼女は、沢山の人と一緒にいることが大好きな人ですが、そういう孤独な仕事を委ねられたのです。

  すると、自分は皆から干されたような、惨めな、淋しい思いにならざるを得ません。だが、その中で自分の役割を発見して行きました。そして、こう思うようになったそうです。

  「最も寂しい所にいる、砂漠の隠遁者でさえ、キリストの体に属しています。この事柄は、私に多くの慰めを授けました。」

  自分らしく生きるとは、惨めさを持つ必要も、劣等感を抱く必要もなく、最も寂しい所にいる、砂漠の隠遁者でさえキリストの体に属しているという、大きな慰めによって生きることです。このことがあると、どんな所にあっても返って祝福を祈ることができるのです。

  祝福を祈ること。それは侮辱をもって報いることから最も遠い行為です。祝福を祈る以上に、平和を愛する行為はないかも知れません。そして祝福を祈るのは、自分もキリストの体に属しているという喜ばしい思いがあるからです。神の愛からすべては始まります。

  それは命を愛することです。人々を真に愛する行いです。平和を願って、追い求めることは、イエスが、「汝の隣り人を愛せよ」と言われたように、隣人を自分のように愛そうとすること以外ではありません。

(完)

                                          2010年8月1日


                             板橋大山教会   上垣 勝

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