被爆アオギリの種


             スイス国会議事堂前の広場。国会は国民のもの、そのものという感じです。
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                                              8月、平和を願う人へ (上)
                                              Ⅰペトロ3章8-12節


                              (序)
  今日は8月第一日曜日です。私たちの日本キリスト教団は、1962年に「8月第一日曜日を平和聖日にする」と決めて、各教会にこれを覚えて守ることを奨励し、今日に至っています。その後、教団以外でも、8月に「平和を覚える日」を持つ教会が多く生まれているのは、嬉しいことです。

  「平和聖日」が生まれた第一の理由は、二度とわが国が戦争を起こさないためです。当時国内では、廃案になりましたが靖国神社国家護持法案が何度も国会に上程されたり、靖国公式参拝が行なわれたり、「日の丸・君が代」の法制化など、再び戦争を準備しようとする勢力の強まりがあって、「平和聖日」の存在意味があったと思います。

  1962年というと、丁度アメリカがベトナム戦争に介入し始めた時期でした。ベトナム戦争は75年まで10年以上続きましたが、その頃は「平和聖日」は「ベトナム戦争が早く終るように」という祈りになりました。また沖縄返還の祈りになりました。その後、韓国の民主化運動のために祈ることが多くあり、大塩先生を中心に大山教会は大事な働きをいたしました。

  今は沖縄の基地問題始め、東アジアの平和維持、またアフガニスタン問題などがあります。半世紀の移り変わりはありましたが、現在も「平和聖日」に大事な意味があります。

  今日は「8月、平和を願う人へ」という題ですが、これらを覚えつつ聖書に聞きたいと思います。

                              (1)
  今日のペトロの手紙は10、11節で詩編を引用して、「命を愛し、…平和を願って、これを追い求めよ」と書いています。

  旧約聖書には戦いや裁きが多く出てきますが、それが旧約の中心ではありません。創世記第1章に、神は生き物を創造して祝福し、「生めよ、増えよ、海の水に満ちよ。…地は、それぞれの生き物を生み出せ」と言われ、そうなったのを見て、神は「よし」とされたとありますが、生きること、生かすこと、命を豊かに育むこと、また平和を求め、人々の幸せを願うことが聖書の根幹にあります。

  ペトロの手紙は、「平和を願って、これを追い求めよ」と書きました。平和が求められる所に、命は美しく花開き、命の力強さも美しさも現われるものだからです。

  65年前の戦争を実際に経験した方の割合がドンドン少なくなります。今日は戦地で戦争を体験した方はいませんが、国内で色んな形で戦争を経験された方々がいます。その方々は特に、平和はとても大事で、それは命を生かす世界であり、再び人を死に追いやる戦争をしてはならないと考えておられると思います。

  しかし考えてみますと、平和は神経質で、ガラス細工のように壊れ易いものです。信頼を作り出すのでなく、対立を煽り立てれば、どんな小さな火種も大火になります。しかも、平和は誰にも強制することはできません。強制が一歩でも過剰になれば、たとえ平和の強制でも、それが返って憎悪と争いの火種となりかねません。そういう意味では、平和を求めることは人格を尊ぶこと、一人ひとりを大切に扱うこと、信頼関係を築くことです。

  国連平和維持軍の難しさは、そこにあります。丸腰であっては危険ですし、発砲してしまっては平和維持になりません。正当防衛も、情況によっては正当防衛でなくなり、過剰防衛になります。

  平和はまた、おとなしく、気弱そうなところがあります。私みたいですね。エッ、猫をかぶっている、ですって?それはとにかく、平和は逃げて行っても、無理に引き止めることは中々できません。

  ですから聖書が語るように、平和は「願って、追い求め」られなければならないのです。平和が支配し、活動し続けるために、私たちは努めて自覚的に平和を追い求めなければならないのです。

  そういう意味において、小さい時からの平和教育は極めて大切でしょう。前任地にいた頃、幼稚園のお庭に「平和の木」を植えました。それは幼稚園児からの平和教育が大事だと考えていたからです。それは平和の社会教育だけではありません。友達同士がケンカします、それをどう解決するのか、ケンカしちゃあいけないと言ってもケンカしますから、お互いに話し合って解決するそういう教育をしました。

  その一環として、広島で被爆したアオギリが全く焼けて死んだと思えたのに、何年後かに芽を吹き出し、やがて実をつけ出します。で、沼田さんと言うキリスト者が、その前で被爆者としてアオギリを通して証言をし続けました。私は沼田さんの話しを聞いたことがありますが、幼稚園が90周年を迎えた時、記念にそのアオギリの種を「平和の種」として頂いて、一年間植木鉢でそれを育て、その後、教会学校の子ども達と園庭に植えて「平和の木」として育てました。昨夜、福井の人が来て聞きましたら、その平和の木は大きく育って、100周年を迎えた幼稚園の顔になっているという事でした。とにかく、小さい頃からの平和教育が大切です。

         (つづく)

                                           2010年8月1日


                             板橋大山教会   上垣 勝

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