和解に生きる人


                          チョコレートの町ベルン。



                                              和解に生きる人 (下)
                                              コロサイ1章21-23節


                              (3)
  「神は、御子の肉の体において、その死によって、あなた方と和解し、ご自身の前に聖なる者、傷のない者、咎めるところのない者としてくださいました。」

  聖なる神と出合って、心の汚れを意識しない者はいないでしょう。預言者イザヤは神と出会った時、「災いだ。私は滅びるばかりだ」と叫びました。どんな聖者も、一点の罪も汚れもない人はいません。むしろ神に近づき、神を知れば知るほど、自分は清くない、不純な者だと、思い知らされます。

  アウグスチヌスは、やがてこう祈るようになりました。「主よ、私の魂の家は、とても狭いのです。どうか広くして下さい。あなたがお入りになれるように。私の魂の家は荒れ果てています。どうか修理して下さい。私の魂の家は、あなたの目にどんなにか醜く映ることでしょう。私は、自分の魂の醜さを知っています。それを清めて下さるのは、主よ、あなたお一人です。…自分でも知らない罪から、僕を救ってください。」

  自分の魂の家の狭さ。魂が荒れていること。またその醜さ。これは私たちの姿ではないでしょうか。

  ところが魂の家が狭いにも拘らず、私たちは大きく広く見せようとし、魂が荒れて醜いのに、美しく善く見せようとする。それほど魂は病んでいます。しかも他の人の魂の醜さに接すると、それ見たかと思ったり、嘲ったり、仮借なく裁いたりしてしまう心の狭い人間であります。

  ですから、「神は、御子の肉の体において、その死によって、あなた方と和解」して下さるというのは、本当はあり得ないことであって、ただ一方的な憐れみからこういう私たちを救うためです。

  「キリストの肉の体において」とあります。「キリストの体において」だけでも意味は通じますが、「肉」とつけ加えています。ここに先週お話したグノーシスとの対決があります。彼らは現世を軽視し、肉を否定しました。その事は、今日はもうお話いたしません。

  「キリストの肉の体において」というのが重要なのです。なぜかというと、神と私たちの和解は、幻想や作り話ではないからです。実在のキリストが肉を裂き、血を流し、磔になり。肉の体においてという動かぬ事実、物理的・客観的事件に、神と私たちの和解の根拠があるのであって、和解は抽象的思想や理念ではないからです。

  今日は「和解に生きる人」という題ですが、和解に生きた人は、何よりも先ずナザレのイエスです。この方の行為に和解とは何かが表わされています。愛なしに、祈りなしに、また犠牲の行為なしに和解はありません。

  しかし考えてみれば、罪と義は元々何の関係もありません。それらは真っ向から相反するものです。神は罪を決して愛されません。罪を憎まれます。「罪の支払う報酬は死である」とあり、「罪の終局は死である」と聖書にある通りです。

  だが神は、死すべき私たち罪人を義とするために、聖なる御子を磔にし、引き換えに、私たちを「ご自分の前に聖なる者、傷のない者、咎められる所のない者として下さった」というのです。

  キリストが聖なる者、傷のない者、咎められる所のない者だというのなら分かりますが、キリストの死のゆえに、私たちを贖い取って、「ご自分の前に聖なる者、傷のない者、咎められる所のない者として下さった」というのですから、驚きます。

  クリスマスに天の使いが、「恐れるな。見よ、私は大きな喜びをあなたがたに告げる」と羊飼いたちに語りましたが、魂が汚れ、醜くて罪深い私たちが、「神の前に聖なる者、…咎められる所のない者」にされたのですから、ここに恐るべきクリスマスの福音は成就したと言えるでしょう。

  私たちはただ恵みによって救われたのです。「あなた方は神の前に聖なる者、傷のない者、咎められる所のない者」だ。こう語るのは、他でもない神です。ただ神だけが、罪はあなたの上にもはや何の力も持たない、あなたと私の間を何者も引き裂くことはできないと言われます。

                              (4)
  驚くべき福音です。こんなにまばゆい光の中に、私たちは置かれていいのでしょうか。本当に「傷のない者」と見なされていいのでしょうか。

  だから、23節でパウロは確乎として語ります。「ただ、揺らぐことなく信仰に踏みとどまり、あなた方が聞いた福音の希望から離れてはなりません。」

  この「ただ」は、この恵みの上でただ甘んじてはならないという意味でしょう。一方的に憐れんで下さった神の恵み、神の高価な愛を土台とし、むしろ揺らぐことなく堅く立ちなさいという事でしょう。

  また、「あなた方が聞いた福音の希望から離れてはなりません」とは、希望を失わせようと追い迫る者があっても、神の恵みから離れてはならぬ、という意味です。

  御子の測り知れぬほど尊い、高価な肉体と血が人の救いのために捧げられたのです。とすれば、私たちが聞いた、福音の希望から離れるより、重いひき臼を首につけられて海の底に沈められる方が、はるかにましとすべきではないでしょうか。

  私たちが聞いた福音は、いわば畑に隠された宝のようなものです。持ち物を売り払って、手に入れても惜しくない程の高価なものです。

  以上をまとめれば、神の恵みは高価です。この恵みを安価なものにしてはならないし、無駄にしたり、忘れたり、失うことがあってはならないのです。

  今日、ギスギスした社会の中で和解を作り出す人、和解に生きる人が以前以上に必要とされています。それは大変骨の折れる仕事ですが、その人は社会に中で欠かせない人、キーマンになるでしょう。

  では、そのような人はどこから和解の力を汲み取ればいいのでしょう。和解を生きられたキリストにその力を授ける唯一の源泉があります。この源泉は、決して涸れることなく、和解への勇気をまた喜びさえ与える源泉となるでしょう。

         (完)

                                          2010年7月25日

                             板橋大山教会   上垣 勝

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