伝統は変身の力を内に秘める


     アルプスを眺めて5分後背後を振り返ったら、満月がかかり気球が浮かんでいました。ベルンで。



                                              私の心は腐っていた (下)
                                              マルコ2章13-17節


                              (3)
  その後、レビはイエスさまたちを自宅の食事に招き、そこにおびただしい数の徴税人や罪人が集まったとあります。

  ここから、レビは独身青年でなく一家を構えている人であったと推測されます。ザアカイのように徴税人の総元締めであったかも知れません。それで、仲間の徴税人たちを招いて別れの宴会を開いたのでしょう。

  それ程、レビの喜びは大きかったのでしょう。

  それにしても、ここにあるのはイエスの常識を破る大胆さです。当時は一緒に食事をするということは家族の一員に加わることです。兄弟姉妹になることを意味します。イエスは、レビとその家族だけでなく、大勢の徴税人や罪人と、家族同様に交わられたということです。

  ここに万人に等しく及ぶ神の愛が啓示されています。人間の思いを遥かに超える、超越的な神の愛とその真実です。垣根を作らず、社会の障壁を越えて行く真剣かつ大胆な愛。イエスは、一人ひとりのことを十分に知った上で、どんな人も人間として扱い、接しられます。社会の掟も踏み越えて行かれ、あなたは神の似姿として大切に造られているとして、大切に尊ばれるのです。

                              (4)
  徴税人レビを招き、彼の家に行ってその仲間たちと親しく交わられたイエスの姿に、人類の一人ひとりの上に輝く神の光が表わされていないでしょうか。イエスは、暗黒の中に住む人たちに愛と希望の光を照らすために来られました。それがらい病人の癒しと今日のレビの招きで示されていたわけです。

  今日の最後の箇所で、イエスファリサイ派の律法学者たちに、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言っておられます。

  今日、一部の教会は伝統をただ墨守して、どんどん信仰的に保守的になっています。真の伝統というのは、自らを変身させる力をも豊かに内に秘めているものですが、日本の教会はいかんせん伝統はまだ浅いのに、自信がないのでしょうかただそれを墨守する傾向にあります。最近の教会の内に、キリストによって改革されたいという気迫がない。正しい人、丈夫な人、立派な人、金持ちを招く傾向が増えています。日本では、教会でパイプオルガンを演奏することが、その教会の社会的地位であるかのように考えられています。教会はこの世のステータスを打ち破れていない。そういう中で、教会はどうしても管理的になり、権威的になっています。

  これでは、暗闇に住む人たちに光を、愛と希望の光を照らすために来られたイエスを、その福音を、どうして指し示すことができるでしょう。

  私は今日、後から、欲しい方にプリントを差し上げたいと思います。それは時々お話しするテゼ共同体のものですが、ブラザー・フランクさんという人が書いた「バングラデシュからの手紙」というものです。

  彼は仲間たちと、そこで30数年、身体障碍者や知的障碍者、また子どもたち、障碍を持った女性たち、青年たちに関わって来ました。彼らが障碍者に関わることになって、やがてそこに有名なラルシュのコミュニティさえ、ブラザーたちのそばに生まれています。そのラルシュのリーダーにJOCS(日本キリスト教会海外医療協力会)のスタッフの岩本直美さんという人がなっています。このように、ブラザーたちの働きは日本人を含んだ国際的なものです。手紙の一部を紹介しましょう。

  祈りは毎日3回、テゼ・ハウスの聖堂で捧げられ、また、「ラルシュのコミュニティや作業所、そしてデイケア・センターなどでも捧げられています。そこでは、イスラム教徒、キリスト教徒、ヒンズー教徒が共に、神から与えられた新しい一日を感謝し、沈黙の内に、あるいは心から湧き起こる単純な言葉を通して、天からの祝福を願うのです。

  これらのイスラム教徒、キリスト教徒、ヒンズー教徒が弱い人や貧しい人に一緒に奉仕するこの小さなしるしが、多くの人々に希望をもたらすものになるようにと心から願っています。

  あらゆる所で、人々は分裂し対立しています。しかし、一緒に弱い人々に仕えていくときに、人々は1つにされて行くのです。今日の世界の暗闇の中で、光は決して不在でないこと、その光の源は神の内にあることを、イスラム教徒、キリスト教徒、ヒンズー教徒が日々の生活のあり方によって示すのです。バングラデシュでこの光が輝くならば、私たちは心の目で、世界中の多くの人々が、その生き方によって、光となっていることに必ず気づくと思います。」

  ここに未来の世界を先取りするような力強い働きがあります。世界の人々は暗闇に輝く光を捜しているのではないでしょうか。その希望の光がここに射しています。フランクさんはオランダ人です。オランダからはるばる言葉の通じないバングラデシュに来て、世界の片隅で光は不在でないことを、光の源は神にあることを指し示している。何と美しく、素晴らしいことでしょう。

  それは、イエスが汚れた罪人として扱われていた徴税人レビを招き、弟子にされたことの中に輝いている光と連動し、連帯するものです。

  気持ちが腐ることが一杯ある。だがイエスは腐られませんでした。イエス以上に気持ちが腐るような仕打ちを受けた者は少ない。いや、皆無と言っていい。だが腐らず、かえって腐っている人の友になられた。そこに私たちへの福音があります。

  もしかすると、私たちの足元に光は不在でないことを示す機会がころがっているのではないでしょうか。心が腐るような足元にさえ、希望の光がころがっているのではないでしょうか。光の源は神にあること、キリストにあることを私たちは生活の中で指し示せるのではないでしょうか。

  闇を指し示す人は多い。分裂や対立を掻き立てる人も多い。だが、私たちの神から受けた使命はそういうものではありません。光を指し示すことです。そのために力を尽くし、命を尽くして生きたいと思います。

         (完)


                                           2010年7月11日

                              板橋大山教会   上垣 勝

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