私の心は腐っていた


                       ベルンからアルプスを眺める。先の写真の1分後。



                                              私の心は腐っていた (上)
                                              マルコ2章13-17節


                              (1)
  イエスは、徴税人レビという男を12弟子の一人に加えられました。

  イエスガリラヤ湖の畔で多くの群衆に教えた後、カファルナウムの町の収税所の前を通りがかられたのです。すると、中に座っているアルファイの子レビを見かけ、「私に従いなさい」とお声を掛けられると、彼は「立ち上がって従った」というのです。

  私たちはここを読んで、余りに簡単な従い方に驚きます。こんなに簡単に従うなら何事も世話は要らないと思ったりします。

  しかし、実際にはレビが弟子として従った背景には、既にこの町を拠点に活動していたイエスの評判があったからでしょう。イエスは、この町の漁師4人を弟子にしておられました。彼らは網を捨て、また家族を残して従ったというのですから、これには何事が起っているのかと彼も心を留めていたでしょう。

  また、ガリラヤ地方のあらゆる会堂で教えておられたイエスの姿も彼の注目を引いたに違いありません。徴税の仕事は、この大きな町の中だけでなく、周辺の農村部などあらゆる村里に及びます。村里に出かけても、あちこちでイエスの噂を耳にしましたし、仲間たちからもイエスの色んな不思議な噂を聞いた筈です。

  しかしレビの心を最も強く打ったのは、1章に出てくるらい病人の癒しであったに違いありません。当時ハンセン病の人は、町外れや洞穴に住み、町に入ることは許されませんでした。体は腐り、膿(うみ)で覆われ、夏には腐った所にウジが湧いて、体から悪臭を放ちます。いや冬でもそうでしょう。ハンセン病の人は、人間として汚れた者とされ、罪人として忌み嫌われ、家族からも捨てられて誰も寄り付きません。

  ところが、跪(ひざまず)いて癒しを願ったハンセン病の男をイエスは深く憐れんで、手を差し伸べられました。そして、その人に触れて癒されたのです。「その人に触れて」とは、単に衣かどこかをチョッと触るという事ではありません。むしろ心から憐れに思い、「抱きかかえて」癒されたのです。また、今後の生活の仕方を厳しく教えて帰されました。

  レビは、イエスの持つ偉大な力と深い愛のゆえに、この事件を深く心に留めたに違いありません。

  なぜなら、レビは徴税人です。徴税人も、ユダヤ社会から人間として汚れた者とされ、罪人として忌み嫌われていました。立場は違いますが、らい病人と同類項でした。

  一方は健康上から来るものですが、他方は職業から来た忌み嫌いです。彼らはローマ帝国の役人の手先になり、同国のイスラエル人から税金を徴収する汚い仕事を請け負っている男たちだというのです。確かにやり方によっては、極めてボロイ仕事です。一種のヤクザです。

  ローマの役人にうまく取り入り、出来るだけ儲かるいい請負仕事を落札するのが、ザアカイのような腕利きの徴税人の頭(かしら)の仕事でした。

  経済的には豊かです。困ることはありません。だが徴税人は普通の人の友人はいません。町で孤立した存在です。素性を知る者は、決して声を掛けません。近くに来れば、急いで離れます。

  収税所に座っていたレビは、ローマの役人とも接触がありますから、身なりも恰幅(かっぷく)もいいですが、外見はそうでも、人生を考え、将来のことを思って、心は腐っていたに違いありません。一生まわりから嫌われ、この仕事を続けてどうなるのかという、不安、心配、焦り、怒りです。

                              (2)
  心が余りに腐る時には、憂さを晴らすために遊女を買いに行くこともあったでしょう。1人、2人妾を置くのもいたって簡単だったでしょう。だが、東京のような大都会ではありません。自然とその種の行動は外に漏れます。東京だって意外と狭いものです。そういうことが人の耳に入ると、一層人たちから忌み嫌われ、見下げられ、自分でも嫌になるという悪循環を生んだでしょう。

  気持ちが腐り腹が立って、腹立ち紛れに血も涙もない税金の取立て方をすることもあったでしょう。いや、それが常態になっていたかも知れません。

  人は気持ちが腐ると、何を仕出かすか分かりません。ある程度の社会的地位があったり、指導的立場にある人でも、気持ちが腐ると、つい出来心が起ったり、魔がさしたりということも起こります。最近の新聞を見ていると、そんな人が警察で、「魔がさした」とか何とか言っているのが載っています。人の心は罪に染まっていると聖書にあるのはその通りです。

  誘惑はどこにも転がっています。ものがうまく行く時には、増長して誘惑に手を伸ばしますし、進んで誘惑を待ったりというのが人の姿です。人間というのは信用ならないのです。本当に信用できません。病んでいます。

  レビも徴税人の一人として、人からの扱いで見下げられ、白い目で見られ、差別されると、腐って爆発しそうになることもあったでしょう。

  だがそういうレビを、イエスは通りがかりにご覧になって、「私に従いなさい」と呼ばれたのです。むろん、イエスはカファルナウムでもう長く住んでいますから、事情をすべて分かった上で呼ばれたのです。

  本当に信用ならないのが人間ですが、イエスはそんな人間の中にある僅かな神の似姿に目を留めて、そのゆえに信頼し、赦していかれる、唯一信用できる方です。

  レビは即座に立ち上がってついて行きました。生まれて初めて、「自分を一人の人間として真面目に扱い、声を掛けてくれた。」しかもその方は、肉体が崩れたらい病人をものともせず、抱きかかえて癒されたキリストであったからです。

  彼はもしかしたら、たといらい病人へのイエスの愛であっても、噂ですから疑うこともあったでしょう。だが、自分が声を掛けられた今、初めてイエスの愛は決して裏切らない真実なものであることを確信し、喜びに溢れたでしょう。

  彼が、即座に従った姿に、これらのことが示されています。

  関西であちこちの教会や教会関係の施設に消火器を投げ込んだ事件があり、犯人が捕まったそうです。洗礼を受けていたかどうか知りませんが、信頼していた韓国人教会の牧師が辞任して渡米し、教会が信頼できなくなったというものです。また礼拝が終わると、皆が韓国語で話すので、自分は疎外されたそうです。病的な要素があるかも知れませんが、もし彼の気持ちを受け留める人がいれば、違ったかも知れません。

  女子中学生が友達と一緒になって、自分の家に放火して親を殺そうとした事件もありました。親子の確執があったようですし、十分明らかでありませんが、この女子生徒に、「ブラジルに帰れ」とか、「臭い。同じ空気を吸いたくない」などといった陰湿ないじめがあったとも報道されています。

  いじめられても、それを跳ね返して、心を腐らせない強さがあればいいでしょうが、でも心腐らせるのを受け留めて、正しく導く人があればまた違う方向に進んだでしょう。

  徴税人レビの場合は、イエスによってしっかり受け止められたのです。それが彼の救いになった。

           (つづく)

                                           2010年7月11日

                             板橋大山教会   上垣 勝

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