ピンチこそ飛躍の時


                         ベルンからアルプスを眺める

  
  
  
                                              それは全く無駄だったのか (下)

                                              使徒言行録17章16-34節


                              (4)
  パウロがアレオパゴスでした信仰の証しは、結果的に失敗だったといわれます。聞き手は、パウロが復活について語り出すと、聞かないうちに、「その事は、別の機会にでも聞くことにしましょう」と言って、帰ってしまったからです。パウロは意気込んでいたのに収穫は僅かでした。

  まるで種まきの譬えに似ています。当時はカゴに種を入れてそれを掴(つか)んでサッと蒔(ま)きます。蒔いているうちに、ある種は道端に落ちました。別の種は土の薄い石地に落ち、別の種は茨の中に落ちました。アテネの人はキリストの言葉に触れましたが、短く触れただけで、まるで道端に落ちた種のように興味を持たず去っていきました。種は大部分、良い土地でなく石地か道端に落ちてしまったのです。彼の働きは無駄だったかのようです。

  しかし今日の聖書は最後に、少数だがパウロの所に留まり、信仰者になったと記しています。全力を傾けた結果が少数だったと言って、無駄だったと言えるでしょうか。彼のアテネ伝道は失敗だったと語られますが、本当でしょうか。いや、これこそ、「時が良くても悪くてもみ言葉を宣べ伝えなさい」の、「悪くても」の時ではないでしょうか。

  順風が吹いている時はいいですが、逆風が来たり、雲行きが悪くなってピンチになった時が、一番大事なときです。皆さんもこのところ、眠い目をこすりながらサッカーを見ておられるでしょう。84歳のA先生は勉強家でまさかサッカーと思いましたが、日本戦の時、1時間眠って11時から観戦したそうです。サッカーでもピンチにどう耐え切るかが大切でしょう。パウロはピンチにもひるまず、ピンチの時こそ新しくキリストに出会い、信仰が深められる時と見ました。だから、アテネを去って次のコリントでは良い働きをすることができたのでしょう。そこでは教会も生まれました。

  江戸末期にキリスト教が再び日本に到来しました。だが、まだキリシタン信仰は厳禁の時代でした。横浜には今から151年前、沖縄にはその13年前の164年前に赤ちゃんを連れた宣教師夫妻がはるばるイギリスから来ています。

  彼らに触れた日本人たちは、アテネパウロ同様、短期間に多く洗礼を受けたわけではありません。パウロアテネ伝道は失敗だとするなら、彼らも当初は失敗と言える状況です。洗礼を受けるのは命がけでした。即刻、打ち首になったからです。しかし、沖縄に伝道したベッテルハイムは8年間留まり、その間に10人ほどが洗礼を受けたのですから驚きです。

  横浜では、儒学者蘭学者、旗本侍など色んな人が宣教師たちに接しました。その中の一人に奥野昌綱という侍がいました。彼は横浜でバラという宣教師に出会います。奥野は武士の中の武士と言われた人で、国学儒学のあらゆる学問に通じる人物でした。しかしバラに出会って信仰を持ち、この優れた学者がバラの聖書翻訳を助けました。文語訳聖書が格調高い名文と言われ、小説家を志す人は今も是非読むように勧められるのは、奥野が関わったからです。

  彼は洗礼を受けてこう言ったといわれています。「彼らは私の首を打ち落とせても、私の魂は打ち落とすことは出来ない。」大変な覚悟です。当時の信仰者の姿をこれ以上に的確に言い表わす言葉はないと思います。イエスは、「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言われました。彼はこの方に出会ったのです。

  アテネで信仰を持った人は、僅かでした。だからこそ彼らはこの町に新しい時代を切り拓く、大変大事な働きをしたに違いないと思います。

  21節に、「全てのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過していた」とありました。今の日本の、そして東京の多くの人たちも似たり寄ったりではないでしょうか。

  私は地方に住んでいた時、よく夕日を見に行きました。夕日が沈んでも浜辺に座って、引いては打ち寄せる波を長い間見ていました。しかし今、都心にいても、毎日浜辺に座って波が引いたり打ち寄せたりする光景を見つめています。それは、次から次へ新しくなっては古くなる時代の流行の波であり、同時に後れまいと追っている人々の波です。しかもしばしば、実は自分が追っているのでなく、宣伝によって躍らされ、追わされ、買わされているに過ぎない人たちの波です。むろん、消費が進まなければ経済の回復はありませんが…。

  「何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過してい」るだけ、では駄目ではないでしょうか。そういうことだけで空しく人生を過してはならない。もっと深いもの、私たちの命の根源にまでたどり着き、そういう深い所に棹(さお)をさし、そこに根ざして生きる者でなければならないのではないでしょうか。そういう本質的な、永遠的なものに出会って、人生を生きなければ、生きた甲斐がないのではないでしょうか。

          (完)

                                           2010年7月4日


                              板橋大山教会   上垣 勝

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