牧師は自分を吟味して
イギリスと違って写真を撮ったら叱られました。ベルンで。
聖餐を考える (下)
―聖餐式の司式者はキリスト―
ヨハネ6章53-57節
(3)
ペトロという人物のことを考えてみましょう。復活のキリストはペトロに、「私を愛するか」と尋ねられました。ペトロは、「はい、私が愛していることはあなたがご存知です」と答えました。するとイエスは、「私の羊を飼いなさい」と言われました。
こんなことが3度あって、ペトロは「3度も問われたので、悲しくなった」と書かれています。3度もお聞きになるなんて、まだ自分を信じてくれないのかと思って悲しくなったのでしょう。それで彼は、「主よ、あなたは何もかもご存知です。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と言ったと書かれています。
彼は、私の裏も表も、私の信頼も、私の裏切りも、つまずきも、挫折も、私がしたいと思いつつ恐れてできなかった事も、3度知らないと言ってしまったことも、私の弱さも強さも、「何もかも、よく」ご存知ですと言いたかったのでしょう。
私は、ブラザー・ロジェさんがこのペトロのことに触れて、私たち人間は険しい高い山のてっぺんにいるようにと神に呼ばれているのではありません。罪人であっていい。赦された罪人であっていい。キリストにある貧者となり、「私の羊を飼いなさい」と言われているように羊たちの世話をし、他者と共にあり、貧しい者、仕える者、キリストにある貧者になるように招かれているという意味のことを語っています。
聖餐のキリストは、そんなに気張らなくていい、「私はあなた方を愛したのだから、あなた方も行って隣人を愛しなさい。さあ、私があなたがたと交わり一緒にいるから、平和を携え、勇気をもって出かけなさい」と呼びかけておられるということでしょう。
(4)
昨日の「お茶と黙想のとき」はいかがでしたか。何人かの方が語っておられましたが、私も自分に与えられた短冊に書かれたみ言葉から恵みを授けられました。
私がたまたま与えられたのは、「あなた方の天の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい」でした。主菓子とお薄を頂戴して心が静まり、あの静寂の中でこのみ言葉が私の心に喜びをもって迫りました。
私は心の冷たい人間ですから、神は何よりも私に必要な言葉として、「憐れみ深い者となりなさい」を与えてくださったのでしょう。
私はその時こう思いました。「憐れみ」という漢字は、忄篇、すなわち心に粦と書きますが、阝篇だと隣人の隣になります。粦は、親しむとか、近くにある、村の中で軒を並べている様子を示します。ですから、「憐れみ」の憐は、心が隣人に寄り添うこと。情け深く隣人に寄り添うことを言っているのでしょう。
すなわち、父なる神がそのように私たちに情け深く寄り添ってくださるのだから、あなた方も隣り人に寄り添い、情け深くありなさいとイエスは言われたのだと思います。
また、「父が…」とありますから、天の父、私たちの命の源なる方が、私たちの隣に寄り添ってくださっているのだから、心を広く持ちなさい。恐れるな。主の平和が共にある。だから人を裁き過ぎるな、赦そう。赦す者になりなさい。彼らのために赦しを祈りなさい。そうイエスが私におっしゃっているように思いました。
聖餐のキリストがその体と血を私たちにお与えになるのは、私たちが自分を他者に与えるためです。すなわち私は、「あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい」という聖句を授けられることによって聖餐式の中心的なものを、「お茶と黙想の時」に与えられたのです。
聖餐の意味は確かにキリストの愛に与ることです。だがキリストの愛のリアリティに触れながら、「正しい聖餐式をしているのは誰か、正しくない聖餐式をしているのは誰か」と、周りを見回して他者を裁きの目で見ているとすれば、それはキリストの聖餐に与ることになりません。そのような正しくない、愚かな私たちをもお赦し下さるお方が聖餐式の司式者キリストなのですから、私たち牧師は自分をよく吟味してこれを司式しなければならないのです。
(完)
2010年6月27日
板橋大山教会 上垣 勝
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