聖餐を考える


               ヨハネの首を持つ妖艶な姿のサロメは現代の何を示唆しているのでしょう       

  
  
  
                                              聖餐を考える (上)
                                              ―聖餐式の司式者はキリスト―
                                              ヨハネ6章53-57節


                              (1)
  キリスト教が語るメッセージの中心、その生命的なものは神との交わりであり、キリストとの生きた交わりです。ヨハネ15章に、「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」とあります。神との生きた交わりを作るためにキリストは来られましたし、神との生きた交わりがある所に、私たちが用いられて人類の連帯が作り出されるのです。

  コリント前書10章は聖餐式のことを述べて、「パンは1つだから、私たちは大勢いても一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」と語っていますが、聖餐式は神との交わりと共に人類の連帯を作り出すものだと言っていいでしょう。

  イエスは十字架の死を遂げる前夜、あるしぐさをもってその生と死の意味を語られました。マタイ26章では、イエスはパンを取って感謝し、「これはあなたがたに与える私の体である」と語り、食事の最後に杯を祝福して、「これはあなた方のために流す私の血である」と語られました。弟子たちは受取ると、そのパンを食べ、杯から飲みました。これには、やがて裏切るユダもイエスの仲間であることを否認するペトロも与ります。

  イエスが行なわれたこの行為には、信仰の最も重要な中核が想像を超える密度をもって含まれています。

  というのは、聖書の世界では、誰かと一緒に食事をすることは共に生きることを象徴的に表わすものでした。食卓を囲んだ客たちは、事実上家族同様と見なされ、兄弟姉妹になったことです。

  しかも最後の晩餐では、客たちを1つに結び付けているのはイエスご自身です。また、イエスは人々を食卓に招く主(あるじ)であるだけでなく、命を分かち合う食べ物としてご自分を差し出されます。それが今日の聖書でした。

  「私の肉はまことの食べ物。私の血はまことの飲み物だからである。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、いつも私の内におり、私もまたいつもその人の内にいる。」

  聖餐に与るということは、イエスがパンとぶどう酒を通して私たちの内に生きて下さり、私たちもイエスの内にいて、イエスとの生きた交わりを作って下さるということです。イエスは命を与えることによって私たちをご自分の仲間にし、私たち同士に霊の交わりを作り出してくださるのです。

  パンとぶどう酒。それがキリストの体そのものに、血そのものに化けるのではありません。そんなことはあり得ません。キリスト教は伝統を尊びますが、もしこれはキリストの体と血そのものだと言ったら、詐欺でしょう。パンとぶどう酒の物質の中に「霊的に」共在して、キリストの体と血の「徴」になってくださる。

  食べ物を摂取すれば、それは私たちの血となり肉となります。キリストの血と肉を表わすパンとぶどう酒を頂くことによって、キリストは「霊的に」私たちの内に生き、1つとなってくださる。これほど生きた交わりをリアルに緊密に表わすものはありません。

  聖餐はサクラメントです。サクラメントとは秘義とか秘蹟とか訳されます。サクラメントは、「内的な、見えない霊的な恵みを、見える形であらわす徴」と言われ、アウグスチヌスは「見えざる恩恵の見える徴」と呼んでいます。そのような秘義であり、信仰の奥義と言っていいでしょう。

  ただ秘義が一人ひとりに起るか起こらないか。それは最も大事なことですが、それを起こすのは司式者ではありません。キリストご自身が起こしてくださる。そのためには、ペンテコステ前の弟子たちのように、ただ祈って待つだけです。キリストの前でどんなに力んでも起りません。ただ心を貧しくして待つことです。

  聖餐は信仰の奥義を指し示して、キリストの死と復活の最も深い意味を表わし、命の源である方との交わりをつくり出すのです。キリストにおいて私たちを一つの家族、一つの体とするものです。

                              (2)
  ルカ22章と第1コリント11章にあるように、イエスは最後の晩餐において弟子たちに、「私の記念としてこのように行ないなさい」と語られました。その言葉に従って、2千年間キリスト者たちは礼拝において、イエスがその命をお与えになったことを思い出して来ました。聖餐式を行なうことで過去を振り返り、教会が前進する命の源泉となって来たのです。

  「記念として」という言葉ですが、広辞苑などを見ますと、「記念」とは、後々の思い出に残しておくこと、またその形見、思い出とあります。記念切手や記念日、記念祭というのは皆この意味で使われています。

  ただ、最後の晩餐で言われる「記念」という言葉は、それ以上のことを語っています。

  「記念」というのはギリシャ語でアナムネーシスといいます。ヘブライ語では「ジッカロン」と言います。このジッカロンという言葉は、過去の出来事が忘却の彼方に消えるのを防ぐために記憶に留めることではありません。そうではなくて、ヘブライ人たちは、神は、過去の出来事が今も生きた現実の出来事として下さると考えました。「記念」というのは、過去の驚くべき出来事が今も起こっている現実の出来事であり、神はその現実を今も起こして下さっていると考えているのです。

  従って「私の記念として」とは、記念祭のように過去の出来事を記念することでなく、今、力強い愛と救いが行なわれているキリストの実在に現実的に与ることです。

  ユダヤ教では今も過ぎ越しの祭りが行なわれますが、これは3千数百年前の事でなく、今も神はエジプトからの解放の出来事を行なっておられる方であり、信仰者の只中で生きて働いておられることとして行なわれます。

  しかし、キリスト教ではイエスは死人の中から甦り、今も永遠に生きておられる方ですから、なお更聖餐式の主は現実に今おられ、私たちに臨在しておられるのです。マタイ福音書の最後で復活のキリストが、「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」と語っておられるのが、この方です。

  聖餐において、この現実が最高潮に達するのです。これに与る者の内にキリストが住み、与る者がキリストの内に住んで、キリストと交わり、今やすでに死から命に過ぎ越しているのです。

  聖餐において復活の主が私たちを聖餐のテーブルの周りに集められるのです。聖餐式の目に見えざる霊的な司式者はキリストです。

  ですから、それに与るにふさわしい者は誰かを、資格を持つ者と持たない者を人間は規則で篩(ふる)い分けることはできません。規則は一種の律法です。教会法と言えどそうです。律法は福音に服従しなければなりません。

  キリストは心の広い方です。その場でキリストの救いに与りたい人があれば、与ることは赦されるでしょう。拒む自由もありますが、拒む必要もありません。キリストを求め、その恵みに接したい人、信じたいと願っている人であれば、やがて洗礼の恵みに与ることを求めつつ与ることを許されるでしょう。

  キリストは誰をも招かれます。義人でなく罪人こそ招かれます。また、罪人が一人でも悔い改めるなら、天において大きな喜びがあるとイエスは言われました。

  *テゼ共同体の「聖餐」についての解説参照。

          (つづく)

                                              2010年6月27日



                              板橋大山教会   上垣 勝

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