あなたの真の父は天におられます


アインシュタイン先生、なるほど、なるほど、そうだたんですね。大切なのは柔らかく鋭い直感と言ってもいいですか。(ベルンのアインシュタイン・ハウスで)

  
  
  
                                              エッ、家族を捨てるって? (上)
                                              マルコ10章29-30節


                              (3)
  この「捨てる」という言葉は、ギリシャ語でアフィエーミと言います。この語は、捨てるとか放棄するという意味がありますが、「離れる」という意味もあります。英語の幾つかの聖書に当たると、そこでも「離れる」という言葉が使われています。

  ある人はこの所を、家族からの独立という意味で解釈しています。

  今日の箇所から少しそれますが、人は大人になるためには、しっかりと独立していかなければなりません。そのためには、父からも母からもまた兄弟からも、家からしっかり離れる必要があります。それだけでなく、親も子供から離れなければなりませんし、夫も妻も、相手から独立した精神を持つべきではないでしょうか。

  独立というのは、ケンカすることではありません。独立しているから相手を一人の他者として尊敬し、尊ぶのです。独立した人格としてある時、しっかりと助け、いたわり、愛することが出来ます。愛するとは、自分の所有物にすることではありません。

  私も含め多くの親は、いつまで経っても子供を、自分の子だからなかなか離れられずに、深く干渉しがちです。親には親の人生があるように、子供には子供の人生があります。それが親から見てどんなに未熟に見えても、子どもは子どもとして、突き放さなければなりません。そして後ろを振り返らず、自分の人生を精一杯生きなければならない。そうでなければ、過干渉になり、過保護になります。親子だからこそ離れることが必要です。そこに悟りが要求されます。

  人は本質的に一人ですから、人間として世に立つにはむろん共同性は大切ですが、それと共に人に甘えるのでなく、イエスが一人一人と一緒に歩んで下さいますから自立の精神が必要です。

  時には、「離れる」でなく、やはり「捨てる」と言うような強い離れ方が必要な場合もあるでしょう。いや、特殊なケースでは、関係をはっきり断ち切る場合も必要です。

  しかし普通の場合には、イエスはご自分もそうでしたが、家族や子供を見捨てよ、見放せ、見限れと言っておられません。私たちは、君なんか見限ったと言ってやりたい時もあるでしょうが、迷い出た一匹の羊が見つかるまで探す羊飼いの譬えをされたイエスが、家族だけでなく、私たち人間をどうして見放したり、見限ったりなさるでしょうか。

  あの譬えで、イエスは「見つかるまで探し出さないだろうか」と言われました。探しても見つからない場合、それで終わるのでしょうか。いや、また探すのです。繰り返し探して、「見つかるまで」探すのです。

  見限るのでなく、離れよと言われるのです。心が離れてしまった夫婦というのは淋しいと思いますね。そういう離れ方ではありません。

  ただ、接近し過ぎて、自分が望むような人に変わって欲しいと思う余り、子供への怒りが爆発したり、反対に親への怒りが爆発したり、夫への妻への不満が積もりに積もったり、失望や諦めや時には憎しみや敵意が募ったりしてしまいます。また、傷つけてしまう場合もあります。親子や家族の事件の多くはそのようにして起っています。

  親が死んでも、まだ親への恨み言を言っている場合もあります。自分の不運を親のせいにし、自分を犠牲者に見立てて、いつまで経っても親から自立できない場合もあります。

                              (4)
  ある人は、親から独立するには、赦すことと感謝することが不可欠だと語っています(H.ナウエン)。親を責めても、実は親も親を責め、その親も親を責めて来たかもしれません。それがずっと続いて来たのなら、そのことを理解してあげるなら親を赦せるかも知れません。

  責任転嫁の考えを捨てて親を赦す。赦すと、感謝できることが見えて来る。すると、自分の今を感謝して生きることができるようになります。その時、親から独立した人間、大人として生きることが出来るでしょう。

  ですからぜひとも、私たちは家や兄弟や姉妹、母や父、子供などから「離れること」が必要です。それは幸せになる道です。

  このことは私たちを自由にし、それらに縛られることから解き放ち、自主的に独立的にするでしょう。この世のものに出来るだけ依存しない者に創り変えられるでしょう。

  イエスはなぜ家族から離れ、独立することをおっしゃるのでしょう。それは、私たち人間一人ひとりのまことの父が天におられるからです。その方が私たちの父であり、私たちの父の真の父であり、私たちの子供の真の父であり、家族の真の父であられるからです。

  いわばこの世的な肉親への関係を一旦切り、神との関係から出発して肉親を受けとめ直す。それはこの世の崩れやすい結びつきでなく、崩れないものを土台としてもっと豊かな関係が作られるためです。過去のドロドロした関係から始めず、キリストの光に照らされた者として家族を見、キリストの温かい目で、愛の目で見るためです。

  この世の付き合いは愛憎無限です。肉親の愛と憎しみは隣り合っています。一旦こじれれば骨肉相食む壮絶な戦いになりかねません。

  しかし、キリストの教えに従えば、家族との関係も新しく築き直すことが出来るでしょう。

  終わりに、富める青年のことに触れますと、彼はキリストに従おうとしました。救いを求めていましたが、同時に自分の富にもしがみつきました。彼は富から自由になれなかったのです。彼は、愛をもって与えることの自由、自分の所有物の幾らかさえ与えることの自由を持てませんでした。(Br.ロジェ)。

  彼にとっての唯一信頼できる父は、富だったのでしょう。莫大な富を持っていたとあります。その結果彼は、神に、キリストに、そして貧しい人に自分を差し出すことが出来ませんでした。彼は、残念ながら、神とキリストの栄光のために生きることが出来なかったのです。

  だが、神のために、福音のために自分を少しでも手放すことが出来るというのは、何と晴れ晴れした、自由でしょう。その人の前には、神の国が大きく手を広げて待っています。

     (完)
                                             2010年6月13日


                            板橋大山教会   上垣 勝

       ホームページはこちらです;http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/