祈りの貧弱さにまいってしまう時


      真理の射程距離は長いですね。実に胸がすっとします。(ベルンのアインシュタイン・ハウスで)

  
  
  
                                              小さなわざにも愛を込めて (上)
                                              コロサイ1章9-14節


                              (1)
  今日の最初に、「こういうわけで、そのことを聞いた時から、私たちは、絶えずあなた方のために祈り、願っています」とありました。パウロはコロサイ教会の信徒たちのために、一度も会ったことがない人たちですが、絶えず祈ったようです。

  「そのこと」とは、4節にある、コロサイ教会の人たちの信仰と、兄弟姉妹たちに対する愛、更にはコロサイの町の中で地の塩として隣人を誠実に愛する愛に生きている彼らのことを聞いたことを指すのでしょうか。それとも6節にあるように、福音がコロサイの信徒たちを通して実を結び、成長しているということをエパフラスから聞いた事を指すのでしょうか。

  いずれにせよ、獄中で、明日の身がどうなるか知れないパウロは、現在のトルコの内陸部にあるリュコス渓谷の小さな町に生まれたコロサイ教会のことで絶えず祈るっていたのです。

  彼は3節でも、「私はいつもあなた方のために祈り…」と書いていました。この小さな教会に集う人たちの信仰が、キリストに深く根をおろし、信仰生活の足腰が強められることを獄中の日々の祈りの課題にする決意をしていたのでしょう。

  24節に「今や私は、あなた方のために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けた所を身をもって満たしています」とあるのは、この祈りの事も関連しているかも知れません。

  ところで、私たちはしばしば自分の祈りが貧弱で、整っていないことを心配します。祈った後、良い祈りだっただろうか、皆、心からアーメンと言える祈りだっただろうかと案じたり、雑念が起ったりします。祈りの貧弱さにまいると祈るのが苦しくなることもあります。。

  しかしまた、滔々(とうとう)と祈って、良い祈りだったと自己評価した瞬間、それはもう良い祈りではなくなっているかも知れません。祈りは、ただ単純に神に向って捧げられるものです。人の耳に聞かすものでなく、ただ神に届けられるもので、上手下手を超越して神の耳に向かいます。

  ですから祈りで人を裁いたり説教するのは、心が神に向かわず人に向かっているからでしょう。祈りはただ単純に、神に向って捧げられるものです。たとえ言葉が貧弱でもいいのです。神の耳は人と違って、私たちの心にあるものを敏感に聞き分ける力をもっておられますから。

                              (2)
  パウロは「絶えず」とか「いつも」祈っていると書きました。一番大事なことは、祈りの火を灯し続けることです。ですから、4章2節では、コロサイの人たちにも、「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい」と書いています。祈りが素晴らしいとか整っているとか、あるいはそうでないとかでなく、地道に、日々神に祈り続けること自体が、継続して神とキリストの前に出ること自体が大切なのです。

  エルサレム神殿の祭壇の火は絶えず燃やし続けられていました。旧約聖書レビ記6章に、「祭壇の上の火は、絶やさず燃やし続ける。祭司は朝毎に薪をくべ…」とあります。毎朝薪が新たにくべられて、何があっても消されることはありませんでした。この火は、献げ物を焼き尽くして、神に香ばしい香りとして献げ尽くす為のものでした。

  また祭壇の火とは別に、毎日、朝夕2回、香がたかれました。

  祈りも、神を賛美したり、ほめたたえたり、あるいは願いや訴えや、求めや嘆きなどを神の前に携え来て献げるものと言えます。そこで大事なのは、祭壇の火のように消されることなく、あるいは毎日香がたかれるように、祈りは時たま熱く祈ることでなく、神を賛美して祈り続けること、祈りの火を絶やさぬことに意味があります。

  更に、祭壇で燃やされる献げ物は、イスラエルの人たちの献身の意味を持っていましたが、祈りもまた、神への応答と献身の意味を持ちます。ですから、信仰が生きて働くために祈りは不可欠と言えますし、信仰は祈りによって働くと言っていいでしょう。

  確かに祈りは神との生きた交わりですから、生きた交わりなしには、信仰は実際生活で働きにくいのです。石炭をくべずに、どうして汽車が走り続けることが出来るでしょう。祈りは、信仰が生きて働くための石炭です。

  しかし、個々人の祈りの火は、時々消えそうになりますし、しばらく消えてしまっているという事も起ります。起こりませんか?

  個人は祈りを忘れたり、続かなかったり、挫折したりするでしょう。だからこそ、教会という共同体は公けに祈りの火を灯し続けるのです。教会に祈祷会があるのは、個人の祈りの火が消えそうになっても、教会としてはいつも灯され続けるためです。個人の灯火が絶えても、その間ずっと祈りの火が灯されていたのですから、安心して再び祈りへと帰って来れるのです。

  ですから、大山教会なら大山教会が祈る具体的な使命は、信仰は開かれていますから他のことも祈りますし、他のことも祈っていいのですが、客員や求道者の人も含めてこの教会に属する人たちのために祈って、祈りの火を灯し続けることです。

  また、いつも言いますように、私個人も毎朝、皆さんが出勤なさったり、勉強にいそしまれる頃、主婦の方ならお掃除や片付けをしておられる頃でしょうか、皆さんのお名前を挙げて祈るのを日課としています。これは皆さんに連帯し、困難や試練に直面される皆さんのことを神の前に持ち出し執り成すためです。私は教会の群れ全体の方と、日々このようにおれる事を喜びとしています。
 
       (つづく)

                                           2010年6月20日


                            板橋大山教会   上垣 勝

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