生きるチャンスを与えられ


この家並みはアインシュタインに馴染み深いものでした。相対性原理を発見した頃、彼が住んでいた窓からの眺めですから。

  
                                              あなたの中で実を結ぶ福音 (上)
                                              コロサイ1章3-8節


                              (1)
  パウロは1、2節で挨拶と祈りを書いた後、今日の所でコロサイの人たちへの感謝を述べています。

  パール・バックだったと思いましたが、「天才は1人で立つ。使徒は2人で立つ」と書いています。どんなに偉大な使徒も、自分で使徒になったのでなく、キリストによって使徒にされ、キリストと2人で立つからです。彼らは、繰り返しキリストに励まされて派遣される者です。彼らが密室での祈りを大切にした理由はここにあります。一人祈る密室においてキリストが出会い、交わってくださるから力が湧いたのです。私たちキリスト者は全てそういう者です。

  しかし使徒は同時に、信仰の兄弟姉妹とも立っていました。パウロのような偉大な使徒も例外ではありません。彼が幾つかのの手紙で自分への祈りを求めているのはその証拠です。使徒は人々を励ますと共に、人によって励まされ、信仰を支えられました。自分は人の助けなど要らないと、人との関係を切りません。彼らは、キリストを頭として世界の人々と肩を組んで生きました。

  コロサイの町は、現在のトルコ、小アジアの田舎町です。この町は、時代の変遷と共にやがて地上から姿をなくすことになります。パウロは、この町の信徒達が、「キリスト・イエスにおいて持っている信仰」と「全ての聖なる者たちに対して抱いている愛」によってしっかりと立ち、その地に根づいていることを伝え聞いて、今日の所で心から感謝をしています。

  詩編に、「主に信頼し、善を行なえ、この地に住みつき、信仰を糧とせよ」(37篇)という言葉がありますが、コロサイの人たちはその地に住み着き、信仰を糧として生き、キリストを証ししたのです。信仰は日常生活の中で具体的に生きられる時、命を発揮します。困難と闘い、試練を乗り越えて、信仰が現実に生きられる時に輝きを発します。コロサイには、地の塩として、その土地に根ざして生きる人たちがいたのでしょう。

  パウロは獄中にあって彼らのことを伝え聞き、その困難な地でも福音が前進していることを知って慰められたのです。今日の所で彼は、福音がローマ帝国の隅々まで、今や小さなコロサイの住民にまで届いたことを獄中から喜んでいるのです。

  私たちも、信仰を糧として、困難と闘いながら道を見出している人たちを知ると、それがどこの国の人たちであっても慰められるのではないでしょうか。

  この2月にマニラで開かれたテゼ共同体の集会に、日本から車椅子の青年が参加しました。勿論、皆と5日間、一日3回の祈りと、小グループに分かれた話し合いなどに参加したようです。

  4日目に、彼はいろんな国から集まった何千人かの前でステージから話すように求められました。この大会は、毎年どこで開催されても「地上に信頼をつくりだす巡礼」という題で行なわれています。

  彼が話したのは、自分は誰かの介助なしには生活できないこと。朝の着替えも、散歩も、トイレに行くこと、食事、お風呂。全日、人の手を借りなければならないこと。ですから、「自分の生活は人を信頼することによってだけ成り立っています。自分と自分を介助する人が、互いに信頼し合ってだけ自分は生きることが出来ます。信頼なしには生きていけないのです」というようなことを話しました。

  彼は、マニラ大会が「命を十分生きる」という特別なテーマを掲げているのを目にした時、心が熱くなったそうです。「自分は生まれた時から脳性マヒの障害を持って来ましたが、この世界に生まれたことをいつも感謝しています。私は両親を一度も責めたことはありません。また、自分の人生は他の人以上に困難だと思ったこともありません。地上に生きるチャンスを与えられたことをただ心から感謝しています。そして私を育てるためにあらゆる事を行なってくれた両親に感謝しています。」こんな風に、命を十分に生きる機会を与えられたことを感謝していることを語ったと書かれていました。

  彼はどこの教会に属する青年か知りませんが、脳性小児マヒながら英語で話したのでしょうか。英語で書かれたその文章を読んでいて私の心も熱くなりました。

  私たちもパウロと同じように、信仰を糧として、困難と闘いながら道を見出している人たちを知ることは、どんなに励まされることかと思います。

                              (2)
  パウロは、コロサイの人たちの信仰と愛について書いた後、それらは「天に蓄えられている希望に基づくもので」あること、あなたがたはその希望を、「福音という真理の言葉を通して聞きました」と書いています。

  ここに信仰、希望、愛。「信望愛」という3つの言葉が出て来ました。パウロの手紙のあちこちに信仰、希望、愛という仲の良い3姉妹ともいうべきこれらの言葉が出てきます。ここでもこの3つは固く結び合って書かれています。そして信仰、希望、愛が生まれたのは、「福音という真理の言葉を聞く」ことによってであったと書いているのです。

  信仰と希望と愛。これらがそれぞれの個性をもって力強くその力を発揮するのは、一重に福音という真理の言葉を「聞く」ことによってである。キリストの福音に留まり、それを聞き続けること。そのことによって命と内容を授けられ、麗しく成長していく。そうパウロは書いているわけです。

  そう書いたのは、獄中にある彼自身もそうだったからでしょう。獄中の彼はいつ命を中断させられるか分かりません。だが彼は鬱々としません。むしろ獄にあっても、キリストによって、天に蓄えられている無尽蔵とも言うべき希望、終末的な希望に支えられて生きています。地上から希望が失せても、天にはいつも神の希望が満々と蓄えられているわけで、そこから彼は繰り返し望みを与えられて進みました。

  今日を力いっぱい咲いている野の花と同じです。明日は枯れるが、今日、恵みを頂いていることをいささかも疑ったり、軽く見たり、無駄にしたりしないのです。

  先ほどの障害を持つ青年もそうではないでしょうか。

  コロサイの町はリュコス渓谷の狭い地域にあります。パウロも牢獄の狭い中で、重い鎖でつながれ閉じ込められています。暗い、希望をなくさせる地下牢の幽閉です。だが、キリストの福音は世界大に広がりを持ち、世界中いたるところで実を結んでいる。いや、「実を結んで成長しています。」パウロはその事実によって喜ぶのです。

         (つづく)

                                          2010年5月30日

                       板橋大山教会   上垣 勝

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