伝道は、平和の使者として生きること


ベルンのアインシュタイン・ハウス。彼は結婚後3階のこの部屋に6年間住み、ここで相対性原理を発見しました。  
  

  
                                              ペンテコステの日に (下)
                                              使徒言行録2章1-13節


  
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  では伝道ということですが、今日、伝道を考える時、この2千年間に教会が学んで来たものを抜きにしてはありえません。

  統一ドイツの初代大統領として、また信頼できるキリスト者として活躍したヴァイツゼッカーさんが、「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になる」と語って、大変有名な言葉になりました。キリスト者は歴史を大切にしたいと考えています。歩んで来た歴史には、学ぶべきものが沢山あるからで、この間ある人と話していて、若い頃に書いた日記というのは恥ずかしくて読め返せないという事が話題になりましたが、でも、良かったものからも学びますが、自分が犯した罪や失敗、負の歴史からも多くのことを学びます。これは個人の歴史についても言えますし、国の歴史についても言えます。

  伝道の歴史について言えば、かつての欧米の伝道には、しばしば植民地主義の片棒を担ぎ、その国の世界制覇の一環としてなされることがありました。そうしたものがキリスト教の伝道であるなら、「神の偉大な業」と手放しで喜べるでしょうか。呼べもしませんし、喜べもしません。

  それは欧米だけでなく、私たちの教会が属する日本基督教団も戦時中、そういう誤りを犯したのです。だから戦争責任告白を告白するわけですが、そんな物はやめてしまえという声が教団の中にありますが、その意味の重要さが分かられていないからです。

  また、アメリカなどからやって来た宣教師の中に、高飛車に日本の文化や習慣を見下げたり、否定する人たちも以前はあったわけですが、文化の多様性を保つこと、多様な文化が互いに平和を保っていくために、キリスト教以外の文化や習慣をどう見るかという事が問われています。

  ですから新約聖書に戻って伝道というもの、ミッションというものを見直す必要があります。私の申し上げたいことは、12弟子や初代教会に戻って考えると、長いキリスト教伝道の歴史には、良い麦と毒麦が混ざっていなかったかということです。

  ミッションという言葉はラテン語ですが、元々イエスが弟子たちをお遣わしになったことに由来しています。

  イエスは彼らを派遣なさる時、「私はあなた方を遣わすのは、羊を狼の群れに送り込むようなものだ」とおっしゃり、「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になれ」と言われました。「素直に」とあるのは、「危害を加えない」という言葉です。

  ですから、ご家庭でも余りキバをむき出してはなりません。

  イエスは弟子たちを帝国主義的な侵略の手先や征服者の回し者として遣わされたのではありません。むしろ貧しい、無防備な者として遣わされました。ただ、「羊を狼の群れに…」と言われたものの、狼の餌として遣わされたわけでもありません。だから、「蛇のように賢く」と言っていらっしゃる。

  イエスは彼らを2人ずつ村や町に遣わし、家に入ったら先ず、「この家に平和があるように」と祈ってあげなさいと言われました。平和の使者です。

  イエスの胸には、イザヤ書11章の「狼が子羊と共に宿り、豹は小山羊と共に伏す。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる」という言葉があったのでしょう。これは比喩的な言葉ですが、終末的にそういう平和が生まれると確信しておられたからでしょう。

  植民地主義者でなく平和の使者として遣わされた。隣人を軽蔑するためでなく、愛するため、平和を作り出すために遣わされたのです。パウロや他の使徒たちが誇りをもって喜びの福音を語ったのは、これが平和の福音であったからです。

  イエスは別の箇所で、「あなたがたは行って、全ての民を私の弟子としなさい」と語った後、「あなたがたに命じておいたことを全て守るように教えよ」と言われました。「命じておいたこと」とは、神を愛することと隣人を愛することですが、中でも「敵を愛し、迫害する者のために祈る」ことです。これが唯一の、地に平和をもたらす保証となるものだからです。それは他でもない、家族の間でそうではないでしょうか。

  「羊を狼の群れの中に遣わす」とおっしゃったのは、私が共にいるから、恐れを抱くな。おびえるな。人と交わること、混ざることを恐れてはならないと言う命令です。

  「あなたがたは地の塩である」とイエスは言われましたが、それらの人たちの中で「地の塩」として生きよという事です。塩が相手の中に入るには、解けて沁み込まなければならない。いわば地と結びつき、地の中にしっかり入ってこそ地の塩となれるのであって、塩が地に入ることをためらって、塩壷の中に入ったままでいちゃ、いかんということです。

  イエスが弟子たちを伝道にお遣わしになるのは、「自分のために生きるのでなく、他者のために生きること」を意味します。隣人と接し、交わり、特に自分と異質な人とも(地と塩は異質ですが)、異質な人の中で福音の塩味をもって生きることです。

  聖霊降臨は彼らに語る力を与えました。そして言葉で通じない所では、言葉でなく日々福音を生きること、それを生活すること、愛することによって証しする力も与えて下さるでしょう。

  ペンテコステは、そういう力を、愛の力を聖霊によって授けられた日であります。

           (完)

                                    2010年5月23日

                    板橋大山教会   上垣 勝

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