福音が実を結ぶには


特殊相対性原理などはベルンのこのクラムガッセ49番地で生まれ、その後プラハチューリッヒ、ベルリンなどで発展して完成したようですね。


  
                                              あなたの中で実を結ぶ福音 (下)
                                              コロサイ1章3-8節


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  コロサイに福音を伝えたのは、パウロの仲間エパフラスでした。エパフラスとは「魅力ある人」という意味です。彼は、キリストに忠実に奉仕する、魅力的な人物であったようです。エパフラス自身、パウロから福音を伝えられました。そして、コロサイの信徒たちの様子をパウロに知らせたのもエパフラスでした。

  エパフラスは、コロサイの人たちの霊に基づく信仰的な愛をパウロに知らせたのです。

  これらのことから考えさせられるのは、コロサイの人たちは、どんな逆境に置かれても信仰と希望と愛を失わず、日常生活において具体的に憐れみに生きていたであろうことです。

  コリント前書13章でパウロが、「山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、私は無に等しい。たといまた、私が自分の全財産を人に施しても、自分の体を焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、一切は無益である」と書いているように、たとえどんなに固い信仰を持っていても、愛と憐れみを失ったら全てを失います。愛の伴う信仰でなければ、その信仰は無となってしまうのです。

  彼らは、自分を愛するように、無条件的に隣人を愛するように命じられたイエスの教えに、幼子のように従っていたのでしょう。7の70倍、たえず赦し続けることへと招くイエスの戒めに従っていたのでしょう。彼らは「天に蓄えられている希望」によってそうしていたのでしょう。

  私たちは赦せないでいると、体も心も硬直します。心が晴れず、自由がなくなります。だが、愛が赦しへと歩み出すとき、足どりは軽くなります。幼子のように、キリストのみ後に馳せ参じるようなあり方になります。

  ある人は、「愛するとは自分を忘れることである」(ブラザー・ロジェ)と語っています。愛するとは、損得を忘れることでしょう。自分を忘れないと、心は濁って晴れてくれません。面子や対抗意識が私たちの邪魔をしますが、それを捨ててキリストに委ねるとき、心は澄み切って、美しさが現われます。「愛するとは自分を忘れること。」本当にそうだと思います。

  心に一物を持っていると、はらわたが重くなって腐りますが、その一物をキリストに委ねるのです。

  詩編に、「私たちの生涯は、僅か手の幅ほどのものです」(39篇)とあります。僅か手の幅ほどの短い人生です。それを神様に捧げていくのです。皮肉な口調をちらつかせ、相手の良心に呵責を起こさせるような態度を取るのでなく、優しさが、大らかさが内側からあふれ出ることを願っていく。「天に蓄えられている希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました」とあるように生きる時、福音が私たちの中に実を結んでいくのです。

  やはり詩編に、「平和な人には未来がある」(37篇)ともあります。このことも本当にそうだと思います。自分の罪は率直に認め、兄弟の目にあるチリを見ることに時を費やさない。むしろ自分の問題点を神の前に持ち出して、その解決を祈り、その解決を課題として生きるのです。

  優しさの深みを持った教会。リュコス渓谷に生きていた小さな教会は、優しさが極みとなって、教会の外に溢れ出る教会でなかったかと思います。そのような教会であったから、その地に福音が人々に受け入れられ実を結んで行ったのです。

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  先週、東京教区総会が富士見町教会でありました。仕事を休み、初めて出席したAさんと最後までいましたが、Aさんは何度も、これが教区総会ですかと疑問を呈していました。

  そこには、優しさの深みと言えるものは殆どどこにもなかったからです。教区や教団という段階になると、どうして信仰の優しさが流れ出す雰囲気がなくなるのでしょう。力による対決的な態度で会議が押し切られます。

  総会前に多数派の人たちが工作して、投票して欲しい人の名簿を密かに廻しています。それを見て名前を書く人たちは、自分がどんな人に入れているかを分からないで投票している筈です。指示されたままの盲目の投票。指示する人たちも、指示されたままに書く人たちも、悲しい限りです。聖霊の導きを祈って選挙をするのが教会の選挙ですが、これでは、投票が行なわれる前に既に選挙結果が出ています。神もキリストも聖霊も抜いた、人間の巧妙な工作による、だが実際は愚劣な選挙。

  さらに、昨年引退されたO先生が今年もやり玉に挙げられました。先生がいない、反論の出来ない議場でです。私たちの教会の尊敬する創立者でいらっしゃいますが、議長はそれを阻止しようともしませんでした。

  強い意見を吐いて人を弾劾するような態度、裁く態度が先行して赦しがありません。向こうが悪い、謝ってくれば赦してやろうというような福音とはかけ離れた論理を展開して、教区間の不信感を一層募らせている始末で、これが本当にキリストに従う人たちかと疑うほどの状態だったからでしょうか、Aさんは相当ショックを受けていました。

  だがどんなことがあろうと、パウロもコロサイの人たちも、「天に蓄えられている希望」に心を向けたのです。人間でなく、「福音という真理の言葉」に目を向けたのです。「悪に負けてはならない。ただ、善をもって悪に勝たねばならない」のです。私たちは、人に目を向けるのでなく、人を越える方に目を向けること、高い志を持って生きなければならないと強く思います。その時に実を結ぶからです。

  派閥的な対立の構図でなく、敵に対しても愛と優しさが極みとなって、溢れ出るキリスト教でなければならないと、今日の聖書は私たちに教えています。そうでなければ世界で実を結ぶことがないばかりか、キリストからも吐き捨て去られるでしょう。

        (完)


                                        2010年5月30日

                       板橋大山教会   上垣 勝

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