エース級でなくても


      アインシュタイン・ハウスで見たパネル。さすがはマックス・プランクの洞察は深いですね。  
  

  
                                              ペンテコステの日に (中)
                                              使徒言行録2章1-13節


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  聖霊降臨の出来事は、2節にあるように突然起りましたが、何の予告もなく起ったのではありません。ただそれは、イザヤやエレミヤといった大預言者や有名人でなく、ヨエルという全くの無名の人が400年前に預言していたことでした。

  皆さん、ヨエル書ってどこにあるか、すぐに開けれる方はおられますか。できません?やっぱり、ヨエル書は信仰の長い方々でも余り読んでいらっしゃらない…。

  彼はたった4章の短い預言を残していますが、預言者ヨエルの名はそこ以外に旧約のどこにもありません。それほど無名です。でも、そんな人物がペンテコステというキリスト教会の土台になる出来事を預言する。神はこの無名の人を抜擢(ばってき)されたのです。

  ですから、私たちは人間の計る小さい、大きいという尺度は神の目とは異なるということを肝に銘じなければなりません。小さな日ごとの業の中に、愛と真実がこもっている事が重要です。宮崎の口蹄疫の問題が起って、地元の方の苦しみは大変ですが、今、エース級の種牛がどうのこうのと、特別に避難させるとか、特別に延命させてほしいとか、新聞は一面でワイワイ書いていますが、私たちはエース級でなくても、無名であってもいいと思います。私などは無名以外にはなれませんが…。

  山に降った雨が、落ち葉を濡らし地下に浸み込み、伏流水になって、長年かかって、忘れられた頃に泉となって麓に現れるのと同様。私たちの業も伏流水のような密(ひそ)やかなものであっていいと思います。もし人を潤す清水のようであれば何と幸いでしょう。そんな言葉を一生で何度かでも語り得さえしたら、それでも何と素晴らしいことでしょう。

  新約では、聖霊降臨はルカ福音書と今日の使徒言行録1章5節と8節に、復活のイエスの予告、約束として出てきます。その中で興味深いのは、5節でイエスが、「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく、聖霊による洗礼を授けられる」と語られたとあることです。むろんこれは聖霊降臨、ペンテコステを指しています。

  聖霊の降臨が洗礼と呼ばれているのです。これは、聖霊降臨が水による洗礼の真の意味、本質、その奥義を明らかにするものだという事でしょう。

  しかも「聖霊による洗礼」というのですから、イエスが洗礼をお受けになった際、「聖霊が鳩のように、目に見える形で、イエスの上に降って来た」、そして「あなたは私の愛する子、私の心に適う者である」という声がしたという事と関係づけられているのでしょう。

  というのは、弟子たちはイエスを見捨てて逃げ去ったわけで、人間的に言えば、そんな人間を絶対弟子に戻してはいけない、赦せない者たちです。皆さん自分を裏切った人を許せますか。その声を聞きたいですか。2度と聞きたくない。人間的には決して出来ない。

  ところが、そんな弟子たちに聖霊が降ったわけで、弟子たちは、神の霊により、「あなたは私の愛する者、心に適う者である」と宣告されたも同然です。罪を赦され、義とされ、聖とされた。神とキリストによって愛され、迎え入れられたということです。

  聖霊による洗礼という、キリストの愛の受容があったから、彼らは勇敢に外に出て伝道を開始し、地の果てまで出て行くことができたのです。

          (つづく)

                                    2010年5月23日

                    板橋大山教会   上垣 勝

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