神が乗り移ったって?


アインシュタイン・ハウスで見たパネル。今日の後に、昨日のパネルを読むと一層昨日の言葉が分かります。
  
  
  
                                              ペンテコステの日に (上)
                                              使徒言行録2章1-13節


                              (1)
  私がキリスト教に触れた時は、聖霊降臨のことはよく分かりませんでした。弟子たちが、民間宗教などで神が乗り移って、トランス状態と言いますが、忘我の異常な精神状態になってしまう。それに似た状態かと思って、嘲るようなまた避けたいような思いを持ちました。

  今でも、この箇所は判然としない面もあります。

  だが、はっきりしているものもあります。それは、彼らは興奮したり、忘我の状態に陥っているのではないということです。聖霊踊りというようなことをする教会があるそうですが、聖霊を受けて踊り出してもいません。ペトロたちはこの続きの箇所で、「酒に酔っているのではありません」と言っていますが、彼らは冷静で、極めて落ち着いています。14節以下のペトロの説教を見ると、旧約聖書を幾つも引用して大変理性的な話しをしています。

  弟子たちは、他国の言葉で語りましたが、これを異言と言うにしても、天下のあらゆる国、当時の世界中の国から来ている人たちは、その言葉の意味が分かって、「あっけにとられ」たわけで、いわゆる他人には分からない異言というものではなかったと思います。

                              (2)
  聖書がこの箇所で強調している1つの言葉は、4節です。日本語聖書ではよく表現されていないのですが、ある英訳は、「聖霊は彼らに語る力を与えたので、他の国々の言葉で語り始めた」と訳しています。

  私たちの聖書は、「語らせるままに」と訳していますから、聖霊によって自動的に語らせられて語るという意味に取れますから、まるで霊が乗り移って語らせられた状態なのかと想像します。しかし、語らせるままに語らせられたのでなく、「語る力を授けられ」て語ったのです。

  これだと背景を考えれば十分理解できます。ユダヤ人に見つかるのを恐れて、息をひそめ、身を隠していた弟子たちが、今や聖霊が降ることにより語る力を授けられて、隠れ家を出て、イエスの十字架と復活の意味を大胆に語ったということです。

  彼らは、ナザレのイエスに神がなさったことを語りましたが、世界の各国から集まって来ていた人たちはそれを聞いて、自国語で、「神の偉大な業」を聞いて、皆、大変驚き、戸惑ったと言うわけです。

  ペンテコステで起ったことの中心的な事は、この事でしょう。

  すなわち、「神が行なわれた偉大な業」、すなわちイエスの十字架と復活において起った神のみ業は、12弟子だけのものでもユダヤ人だけのものでもなく、ギリシャ人やローマ人、またメソポタミアエジプト人など、全世界のあらゆる人々に真理として妥当し、その心を根底から揺すぶり、彼らを励まし、力づける「神の偉大な業」として驚きを引き起こすものであったということです。

  繰返しますと、弟子たちが聖霊降臨を境にして語り出した福音の真理は、世界万民に妥当する真理であったということでしょう。

  これを契機に、世界伝道が勢いよくスタートを切って行きましたが、伝道というのは人が考案したり、企てたりしたものでなく、ルカ24章で、「上から力を授けられるまでは、都に留まっていなさい」とあるように、ここに、神による、まったく上からの、神の霊の働きによる業が起ったという事です。

  ですから、弟子たちは極めて理性的な言葉で冷静に証ししてはいますが、起った事柄自体は理性を遥かに越える出来事であったと言えます。でなければ、ユダヤ人の中にどうして出て行けるでしょう。それは狂気の沙汰です。

  いずれにせよ、この時に、キリストの福音が言葉の壁、文化の壁、国境の壁を越えて、もしかすると宗教の壁さえ越えて、世界の人に希望を授ける「神の偉大な業」として届けられたのです。

  ですから、聖霊は彼らに「語る力を与えた」のですが、それと共に、万民の心に福音が届く力も授けたということでもあります。
 
         (つづく)

                                     2010年5月23日

                    板橋大山教会   上垣 勝

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