大胆に罪を犯せ…


                    アインシュタインの言葉にハッとさせられました。  
  
  
  
  
                                              洗礼とは (下)
                                              ローマ6章1-11節


                              (4)
  以上のことは、今日の聖書でも語られていました。キリストに結ばれる洗礼を受けるとは、その死に与る洗礼を受けることだとありました。キリストの死に与ることだと言うのです。

  4節で、「私たちは洗礼によって、キリストと共に葬られ、その死に与るものとなりました」とあり、3節にキリストの「死に与るために洗礼を受けた」ともありました。あるいは6節で、「私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」とも書かれていました。

  洗礼を受けるということは、キリストが十字架で殺されたように、古い私もキリストと共に殺され、罪のこの身が殺戮されて、罪の奴隷から救い出されることだと言うのです。

  キリストと共に殺されないキリスト者キリスト者ではありません。ぶどうの木は手入れされることによって、豊かに実を結びます。

  洗礼はキリストに堅く結び付けられることですが、その第1の意味は、イエスの死に与ることです。洗礼式は今は象徴的に水を注がれて行なわれますが、本来は全身水の中に沈められて行なわれました。それは私がそこで死んだということの象徴です。もはや生きているのは私ではないという事の象徴です。

  十字架につけられているのは、私自身なのです。罪に満ちた、人に到底話せないこともある私のこれまでの姿。それが十字架上に掛けられ、葬り去られたことを表わします。

  だがそれと同時に、キリストに結ばれたのですから、キリストが死者の中から甦らされたように、私たちも新しい命に甦らされる。生きているのはもはや私ではなく、私の中にあってキリストが生きておられる。そういう新しい生への第一歩です。

  ですから洗礼は、古い私の死だけではありません。死だけでは生きれません。キリストにあっての新しい生。それが授けられることです。

  どんなにキリストと共に死んでも、キリストと共に生かされ復活させられるという事のないキリスト者も、キリスト者とは言えない。そのことがあったから、12弟子たちはやがて宣教に出かけることが出来ました。「体を殺しても、魂を殺すことのできぬ者どもを恐れるな。殺した後で、地獄で体も魂も殺すことの出来る方を恐れなさい。」イエスのこの言葉は、復活のキリストによって甦らされた者の心に真っすぐに入って行きます。

  それが、「これは私の愛する子。私の心に適う者」という声です。洗礼によって、この声が私たちの上にも語られるのです。

  ガラテヤ書5章は、私たちは「キリストによって、自由へと解放された」と語っていますが、私たちはキリストによって自由へと呼ばれています。私たちの過去はキリストの只中に沈められ、今や新しい生へと甦らされたのです(ブラザー・ロジェ)。キリストは私たちを過去の呪縛から解き放ち、ただ神に対して生きるようにしてくださったのです。そして自由へと解放してくださったキリストは、その道をも拓いて行って下さるでしょう。

                              (5)
  これを別の言葉で言い換えれば、10節の言葉です。「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなた方も自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」

  今や神に対して生き、神の栄光のために生きること。そこに洗礼を授けられた者の人生の焦点がある。この的を外さず生きなさいということです。枝葉末節のことはいいのです。この肝心なことを外さずに、大胆に進めばいい。ルターは、「大胆に罪を犯せ。だが直ちに悔い改めよ」と言いましたが、そういう大胆さが必要です。

  「キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」この言葉は、人生の様々な選択に立たされた時に、私たちが繰返して帰ってくることが出来る出発点です。キリストに結ばれている者として決断し、神に対して生きていることの証しとして具体的な状況で決断する。信仰を生き抜くとはそういうことです。

  イエス様は、「あなたがたは地の塩である。世の光である」と語られました。光は明るみに置かれません。暗闇の中にこそ置かれます。闇は困難で、悩みが山積し、問題に満ちています。だから光が大事です。

  ただ闇の中に置かれて、光が闇に飲み込まれては、光の役目を果たせません。ですから、光はその命を保つために源につながっている必要があります。しかも決して涸れない源にです。そのようにして、光は闇と妥協しません。だが妥協しないからと言って、闇とたもとを分かって、決別もしません。そのようにして、光はこの世で使命を果たしていきます。

  洗礼式において、私たちは、「告白します」と応え、「願います」と応答し、「志します」と決断の言葉を語ります。その決断の言葉を、人生のあらゆる次元で生きて行きたいと思います。

  キリストが友として、傍らに共におられることを感謝しましょう。

          (完)

                                       2010年5月16日

                      板橋大山教会   上垣 勝

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