人と肩を組む神


                        アインシュタイン・ハウスの銅像。  
  
  
  
  
                                              洗礼とは (上)
                                              ローマ6章1-11節


                              (1)
  私たちの洗礼は単なる儀式ではありません。これはイエスヨルダン川でお受けになった洗礼にまでさかのぼります。今日洗礼を受ける兄弟も、この洗礼によってイエスの受けた洗礼に与かり、生涯イエスの恵みに堅く結ばれることになります。

  洗礼の意義の第1点はそこにあります。

  イエスは、ヨルダン川で洗礼を授けていたバプテスマのヨハネの所に行って洗礼を受けようとされた時、ヨハネはそれを思い留まらせました。しかしイエスは、「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行なうのは、我々にふさわしいことである」と語って、罪を持つ全ての人間の只中にあって、罪人と連帯するために洗礼をお受けになりました。

  イエスが、ヨハネの足元に身をかがめてヨルダン川の流れに身を沈められたのは、人間の状況の最も低い所にまで身を置こうとされた姿を象徴しています。私たちの洗礼はこのキリストの洗礼に与ることです。

  ヨハネ福音書を見ますと、イエスは最後の晩餐の場面で弟子たちに、「もはや、私はあなたがたを僕とは呼ばない。私はあなた方を友と呼ぶ」と語っておられます。洗礼を受けてキリスト者にされるということは、本質的には、キリストの「友」とされることです。

  イエスが私たちを友とされるというのは、畏れ多くて、感情的にはピンと来ない方も多いでしょうが、この聖書が示すようにイエスは私たちを友としてご覧になっているのです。

  ですから洗礼を受けるとは、イエス・キリストが私たちの横に立って、肩を組んで下さることでしょうし、彼との新しい命の世界に入れて下さることであると言っていいでしょう。

  それだけではありません。イエスが洗礼を受けて水から上がられると、天が開け、「これは私の愛する子。私の心にかなう者」という声がしたと書かれていますが、私たちも洗礼を受ける時、それと同じ声が天から発せられるのを聞くのだと言っていいでしょう。

  むろんそんな声が実際に聞こえるわけではありません。しかし、洗礼を受けるというのは、イエスとは意味合いは違いますが、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けられる時、「これは私の愛する子。私の心にかなう者」という神の肯定の言葉。私たちを義とする言葉を聞くことです。

  この後の洗礼式においても、受洗者の兄弟も他の皆さんも、神によって彼の上に「よし」という事が起ったという事を聞き取っていただきたい。そしてこの教会の新しい信徒として迎えていただきたいと思います

                              (2)
  洗礼の意味を考えるには、最初の弟子たちの働きを思い出すことがぜひ必要です。使徒言行録2章にあるように、最初のペンテコステが起った時、ペトロは他の兄弟たちと共に、勇敢にも、ユダヤ人たちに向ってイエスの十字架の処刑と復活について説教をしました。

  それを聞いたユダヤ人たちは、大いに「心を刺された」と書かれています。自分達は、イエスが神から遣わされた方であることを理解せず、十字架につけて殺してしまったことを悟って、強く「心を刺され」たのです。彼らは心に強い咎めを感じて、「私たちはどうすればいいのでしょう」と弟子たちに聞いたのです。

  するとペトロは、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、…聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなた方の子供にも、遠くにいる全ての人にも、…誰にでも、与えられるものなのです」と語ったと書かれています。

  つまり、洗礼とは第1に、メタノイア、悔い改めを意味します。神との出会いによる180度の方向転換です。そういう狭い門から入って行くことを意味します。この世から神の方に向くことです。彼らは心を強く刺されて、悔い改めをもって、過ちを神様に委ねたのです。

  ユダヤ人たちは、自分らは取り返しのつかないことをしてしまったことに気づきました。どんなに謝っても悔やんでもイエスは戻って来ません。彼らの過ちはいかに重く見積もっても見積もり切れません。

  だが、弟子たちはその過ちを赦して頂くために神に委ねることを勧めたのです。そして実際に彼らが悔い改め、神様にすっかり過ちを委ねていった時、その罪が赦されたのでしょう。イエスを十字架につけた彼らが、聖霊を受けていったのです。

  キリストを殺した彼らに、その後、キリストの霊である聖霊が降ったのですから、これは画期的な出来事でした。罪人をも義とする愛の神がここにおられる。やがてパウロユダヤ教からキリスト教に180度転換して来ますが、その先触れとも言える出来事がここで既に起っています。

                              (3)
  このことは洗礼の別の意味に関係します。それはコリント後書5章にあることですが、「今や、キリストと結ばれる人は誰でも新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」ということです。前の訳では、「誰でもキリストにあるならば、その人は、新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、全てが新しくなった」となっていました。

  むろん感覚的には、洗礼後に意識が変わったという人も、余り変わらない人もあるかも知れません。実感は様々です。しかし、目に見えず、感じとしてなくても、既にその人に神の新しい光が照らされたのです。先ほどのことで言えば、「これは私の愛する子。私の心にかなう者」という言葉。私たちを義とする、神の肯定の言葉が語られたのです。

  半世紀前の映画監督ですが、小津(おづ)安二郎という人がいました。この人は、「本当に新しいことは、古くならないことである」と言っています。そういう映画をつくりたいという事だったかと思います。

  この第2コリント5章の、「見よ、全てが新しくなった」という「新しい」という言葉は、カイノスという語です。これは時間的な新しさとは違って、時間的な新しさはネオスという言葉で表されますが、それとは違って質的な新しさ、決して古くならない永遠の新しさを指します。それがここで使われているカイノス、「見よ、全てが新しくなった」という言葉です。

  神の子キリストと結ばれて、あなたは決して古くならぬ、永遠に新しい者として創造し直されたというのです。

  悔い改めと後悔は似ていますが、全く違います。後悔は、ああでもない、こうでもないと気に病み、あれこれと考えて思い煩います。だが悔い改めは私たちの最も深い所で起り、キリストに過ちを委ねますから、神によって過ちとの関係を断ち切られ、新しく歩み出せるのです。そういう可能性が与えられます。するとあなたは赦され、新しく造られ、自由へと解き放たれ、心に春がやってきます。
  
          (つづく)

                                        2010年5月16日

                      板橋大山教会   上垣 勝

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