苦難は…希望を生み出す


「こんにちわ。お邪魔します。」書斎からアインシュタインが迎えてくれるかと思いました。ベルン生活はこのように質素だったようです。
  
  
                                              信頼が生み出すもの (上)
                                              マタイ13章1-9節


                              (1)
  今日の所には、「その日、イエスは家を出て、湖の畔に座っておられた」とありました。朝早く湖の畔に行かれたのでしょうか。

  岸辺に座っていると、朝の光が湖面を照らして美しく輝き、刻々と表情を変えて行きます。漁師たちが沖で漁をしている姿が見えたでしょう。草も木も生えていない対岸の赤茶けた岩肌の山々の稜線が、朝日を浴びて真っ赤に染まっていくのもご覧になっていたかも知れません。ガリラヤ湖の美しい風景です。

  辺りには静けさが支配しています。風のそよぎさえ聞こえそうな穏やかな平和な風景です。イエス様は、神を想い、人を想い、祈りの時をもっておられたに違いありません。また既に12弟子たちをお選びになっておられましたから、弟子の訓練のことも思っておられたかもしれません。

  やがて気づくと、周りに弟子たちと大勢の群衆が集まって来ていたのです。もう何時間もそこにおられたのでしょう。

  余りに大勢の人たちなので、漁を終えた舟を借り、舟べりに腰を下ろし、そこから岸辺の群衆に種まきの譬えを話し出されたのです。腰を下ろしてとあるのは、じっくり話すためでしょう。人々の腹にストンと落ちるようにお話しするためであったのでしょう。

  イエスは難しい話をされたわけではありません。この13章には、種まきの譬えに始まって、からし種とパン種の譬え、畑に隠された真珠の譬えなどが出てきますが、いずれも普段の日常生活からとった易しい譬えです。誰もが分かる話ですが、今日の最後の節に、「耳のある者は聞きなさい」とあるように、またマルコの並行記事に、「人々の聞く力に応じて」と語られたとあるように、人々の理解度に応じるために譬えで語られました。

  譬えには色んな次元があります。一つの譬えも、聞く人によって深くも浅くもなります。聞く人の聞き方、聞く態度、またその人の魂の求め方によってぐんぐん深められ、広げられて行きます。易しい話ですが、そういう深みある話をされました。

                              (2)
  さて、種を蒔く人が種まきに出て行ったというのです。古代のパレスチナでは、種をカゴに入れ、それを掴んで畑に大まかに蒔いたようです。今の日本のように、よく耕された畝に、一粒一粒品質の良い種を揃えて蒔くというようなことをしませんでした。

  投げて蒔きますから、道端にも、石地にも落ちますし、茨の中にも落ちます。むろん良く肥えた、よく耕された良い土地にも蒔かれます。

  ここで、種まきは神様のことであり、種は神の言葉を指しています。ここから先ず教えられることは、道端にも、石地にも、茨の中にも、良い地にもというのですから、神は全ての人にみ言葉の恵みを与えられるということです。また、み言葉以前に、全ての人に命そのものを授けられているということでもあるでしょう。

  ですから神の恵みを受けるために、どうすればそれにふさわしくなれるだろうかと悩む必要はないのです。神様はコンスタントに、絶えず愛をお与えくださるのです。民族も、国籍も、言葉も越え、宗教も越えて全く公平に、です。

  神は気前よい方です。そこに差別はありません。神の寛大さ、心の広さがあります。神はコセコセされません。大まかと言えば大まか、ケチではあられないのです。

  私たちの持っているもので、与えられなかったものがあるでしょうか。才能を伸ばすと言いますが、才能も元は神様から蒔かれた種があったからではないでしょうか。イチロウだって自分の努力もあるでしょうが、元の種があった筈です。息子の走り方を見ていると、親父とそっくりだったりします。肉体的な骨格も親譲りです。神がなされるのはすべて、命を与えること、私たちの命を祝福することと言って過言ではありません。神は善人の上にも、悪人の上にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださいます。全く公平です。

                              (3)
  さて、この譬えから起こる現実的な問いがあります。麦は、自分だけでは決して育ちません。芽を出し、実を結ぶには、ふさわしい土地を見つけなければなりません。

  道端、石地、茨の地、良い地などというのがそれらです。これは人間の方からすれば、神がお与え下さるものを、どう受け止めるのかという事でしょう。

  というのは、私たち自身の中に、またこの世界の中にも、神様の愛を受けるのを妨げる多くの障害物があるからです。試練や困難があると、神を信頼できなくなることや、やっぱり神はいないと思ってしまうことがあるでしょう。過去の否定的な経験は、私たちの心を頑なにし、神の愛や慈しみを疑うようにさせがちです。そうやすやす騙されないぞと思ったりさせます。

  しかし、試練というのは別の立場に立つと、自分だけでは到底それに立ち向かうことが出来ないですから、別の所からの支援を与えられなければ乗り越えていけないことを気づかせます。逆境や試練はですから逆説的で、返ってそこから新しい道が拓けていくことがあります。

  試練があるからこそ、闘志が湧き、もっともっと大きな命に向って逞しく歩み出させもします。それが人間の不思議であり、素晴らしいことです。

  ローマの信徒への手紙5章に、あなたがたにキリストによって神の平和がある時、苦難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出す。この希望は失望に終ることはない、と書かれているのがそれです。

  ところが、神との間で肝心な平和がないと、苦難が来るとイライラッとなり愚痴が多くなり、苛立っていると思わぬしくじりが生まれ、しくじると苦難が更に増え、人にあたってしまい、責任転嫁もし、次第に絶望的になる。これが心に平和がない時に私たちに起ることです。

  しかし、神の賜物を受け入れる最大の障害物は、苦難ではありません。苦難でなくて、苦難を受けることへの恐れ、おびえです。それに悩まされますと、心の平和を乱されたくない、安楽を失いたくないので我慢が出来なくなります。

  イエスが、「あなたがたは恐れるな。おびえるな」とおっしゃったのは、この問題に関係します。「小さな群れよ、恐れるな。おびえるな。」建築のことを考えている私たちの教会にも、「恐れるな。おびえるな。小さい群れよ」と言われているかも知れません。キリストは、私がいる。この世ではあなたがたに多くの悩みがあるが、「私は既に世に勝っている。」こう言われる主に委ねるのです。

         (つづく)

                                          2010年5月9日  

                       板橋大山教会   上垣 勝

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