少年イエスはいじめを受けていた
反対側の壁に若きアインシュタイン夫妻の写真がかかっています。結婚初期から住んだベルンのアインシュタイン・ハウス。
信頼が生み出すもの (下)
マタイ13章1-9節
(4)
神はいつも私たちを驚かせられます。子どもたちは好奇心に満ち、驚きが大好きです。子どもたちはいつも神様の近くにいます。子どもたちが驚きが好きなのは、驚きは私たちの日常性を揺り動かすからです。
ギリシャで起った財政危機が、世界を揺るがしかねない事態になって来ました。世界経済が立ち直り始めていた時だけに、再び将来が見えない所に突入するかも知れない恐れで世界中がピリピリしています。
株価の乱高下というのは、世界の人々の心理的な不安感のてきめんな現われです。株なんて客観的な数字と思っていましたが、アレは世界の心理の浮き沈みです。確かに鬱(うつ)は英語でディプレッションですが、不況もディプレッションです。彼らは景気を心理として捉えています。
むろん世界経済は大変心配ですが、だがこれも大きな目で見るなら全く悪い事だけであるわけではありません。こういうことがあるから、人間の驕り高ぶりが砕かれ、人間は当てにならないし、真の拠り所にならないことを知らされるからです。イザヤが言うように、鼻から息をする者に頼るなということです。私たちの生活に異議を申し立てられることがないなら、どうして人間的な希望を超えた、神の与えられる命に、永遠なものに目を向けることがあるでしょうか。
人がコントロールできないものを受け入れようとする意志が、神への信頼にもなります。運命への諦めではありません。もっと積極的なものです。
そして神の賜物に、神への信頼が加わる時には、色んなことが可能になります。すなわち私たちの授けられた賜物は良い土地に変えられるのです。神が授けられたものへの感謝と信頼。それが石地や茨の地をも良い土地に創り変えられ、豊かに実を結ぶように導かれるのです。
人間の小ざかしい知恵によってそうなるのではなく、神への信頼であり、感謝の中で、神のみ手によってそう創り変えられるのです。
それは翻って考えると、私たちの土地で、良質そのもの、どこにも悪いものがない、欠点がないという土地はありません。私たちは誰でも、道端や石地や茨の地を必ず内に持っています。
私は今、母マリアのことを考えて話しています。あの貧しいはしため、逆境の中で育った身分の低い乙女は茨の地で育った人です。ですから、あのマリアの賛歌にはトゲがあります。ものすごいトゲです。だが彼女は、「お言葉どおり、この身になりますように」と語って、主に委ねました。この信頼こそ彼女の生涯を変えたのです。
彼女の置かれていた境遇は煮ても焼いても喰えない石地か、ささくれ立った茨の地か、いや、踏み固められた道端かも知れませんよ。皆から弾き飛ばされた道端です。でも、「お言葉通り…。」これが決定的です。
詩編に、「ひがんだ人には、ひがんだものになられます」とあります。神がひがまれるというのでなく、ひがんだ者はひがんで神を見ますから、神がひがんで見えるのです。だが、マリアは神に委ねたのです。
彼女以上に、息子のイエス・キリストもそうです。母マリアがヨセフと結婚する前に生まれたわけで、イエスの少年時代は相当いじめにあったでしょうね。イエスの歩みは決して平坦ではありませんでした。でも、血の滴るようなゲッセマネの祈りで、「父よ、私の思いでなく、あなたの御心がなりますように」と語って、委ねていかれました。
先ほど言いましたが、私たち人間はすべて、元々、良い地と共に道端も、石地も、茨の地も併せ持っています。ただ、私たちが自分の地をどの地であろうとするのかが問われています。自分はどの地と言うのか、です。
求道者会に出ている1人の兄弟が洗礼を受ける決断をされました。来週の礼拝の中で洗礼をお受けになります。
今、決断と申しましたが、私たちが洗礼の恵みに与る決断をする。その時に神のみ心が私たちの上になり、私たち罪の中にある者を義として下さる力が実現して行きます。神によって義とされる。キリストが私たちと共にいて、み言葉を成就して下さるからです。すなわち、み言葉の種は石地や道端や茨の地に蒔かれるだけでなく、イエスの手で私たちの良い地をめがけて確実に蒔かれていますから、そこで何十倍にもなって実を結ばせるのです。
洗礼を受けて、かなり経ってから分かることですが、自分の中には悪い土地しかないと思っていたのに、神の言葉を喜んで受け取る良い地があったことを知ったりします。
そして更に長い時の流れの中で、私たちの生きている土地が、砂漠でなく花々が咲く園のように創り変えられもするのです。
預言者イザヤは語っています。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。野バラの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。…人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。」
砂漠であり、荒れ野である私たちが一面に花を咲かせる時、私たちを通して人々は主の栄光、神の輝き、そのみ力に触れていくのです。
ヤコブはヤボクの渡しを渡るとき、中々渡れませんでした。兄ラバンの仕返しを恐れて恐怖の余り大変おびえました。彼は渡しの手前で夜通し神の使いと組み打ちして、「祝福して下さらなければ、あなたを去らせません」と放さなかったのです。そのようにキリストに信頼し、堅く取って離さないなら、キリストへの信頼は私たちを確かなものへと導いて行ってくれるでしょう。
(完)
2010年5月9日
板橋大山教会 上垣 勝
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