人生という織物


ご覧になれますか?中央のエレベーターが。ベルンの街中には障がい者やお年寄りのためにエレベーターが作られています。  



                                              子どものような人に (下)
                                              マタイ18章1-5節

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  イエス様はまた、「心を入れ替えて子供のようにならなければ」とおっしゃっています。「心を入れ替えて」とは、悔い改めて、考えを改めて、180度の方向転換をするということです。これも同様に、先ず立派なことをしてから天国に入れてもらおうとか、救いに入れてもらうために先ず神のおめがねに適うことをしようという考えを改めることです。

  私たちに必要なのは、私たちがどういう人間であっても、既に神の子供として愛されていることを発見することです。心を入れ替えて、神の愛を再発見することが大事です。

  親をすっかり信頼して身を任せている幼な子を見ていると、100%すっかり主に委ねることを教えられます。言葉を替えていえば、罪も咎もあるまま、来たりひれ伏せと、讃美歌で歌われている、心の低さです。謙遜です。

  詩編147編に、「主は…打ち砕かれた心の人々を癒し、その傷を包んでくださる」とあります。私たちは神を知らない時には、自分の手で傷を包み、傷を暖めたり、舐めたりしていました。しかし、神は温かな大きな手で包んでくださるのですから、すっかりそのみ手に委ねていけばいいのです。

  戦後間もなくまだ貧しい時代でしたが、小学2年生頃に家の玄関のガラスを割ったことがありました。当時ガラス一枚でも高価でした。すると、15歳離れた兄から酷(ひど)く怒られました。割ったことを怒られたのでなく、生意気にも、「弁償する」と言ったからでした。素直に謝ったらよかったのに、今はもう思い出せませんが、兄に対抗意識を持ってそう言ったようでした。その対抗意識を叱られたのかも知れません。子供の分際で何を言うかと兄は怒ったと思います。大変な剣幕でした。

  失敗したとしても、自分で苦労して何とかしようとしないで、何とかしようとしても人間では何にも出来ないものに対しては、あくせくするのでなく、神の温かな大きな手に委ねれば、その失敗の傷口から温かな愛が流れ込んできます。失敗の傷口が創造的な活動のエネルギーになります。

  たとえ自分に責任があり、過ちがあったとしても、あくせくしても覆水盆に返らずであったりします。それをすっかりキリストに委ねることによって、「主は…打ち砕かれた心の人々を癒し、その傷を包んでくださる」のです。既に十分打ち砕かれたのです。今からはキリストに委ねて新しく歩み出せばいいのです。そして実際にキリストは私たちの手を引いて歩み出させてくださいます。

  キリストは命の泉と言われるのはこのことです。この方の所には、いつも新しい命の泉が湧き出ています。その泉は私のための泉です。それは、それに与る私たちが新しく希望に満たされ、生きる力がこの方から与えられる泉です。

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  人生は織物に譬えることができます。間違いや、過ちや、後悔や、むろん成功や喜びや悲しみや苦しみや、人生は色々の糸で織りなされています。しかし色んな糸で織りなされている人生という織物に、キリストの赦しの太い糸が縫い込まれることが大切です。キリストの太い赦しの糸が加わる時、人生の織物にたとえ過ちの糸があったとしても、その失敗の糸も含めて神の前で意味を持ってきます。後悔があってもそれさえ用いられていく。

  詩編136に、「低くされた私たちを、み心に留められた方に、感謝せよ」と力強く歌われています。本当に力強い詩編です。「卑しめられたのは、私のために良いことでした」ともあります。

  人生のユーモアは、そんな所から出て来ます。低くされたことや卑しめられたことさえ、キリストのユーモアをもって見れば値打ちになります。

  イエスは弟子たちの前に、立派な大人を立たせられませんでした。この世は、新聞でも雑誌でもしばしば今脚光を浴びている人や立派な人を私たちの前に立たせて、私たちを羨ましがらせたり、憧れさせたり、けしかけたりします。だがイエスは私たちの前に、この世的な成功者や注目の人を立たせられません。

  これはホッとさせられることです。イエスは私たちをけしかけられません。

  むしろ低い人、子どもを立たせて、私の名のためにこのような1人の子供を受け入れる者は、私を受け入れるのであるとおっしゃったのです。

  キリストの名のためにこのような1人の子供を受け入れる時、そのように低くなる時、私たちは自分の十字架を避けずに担えるのではないでしょうか。苦労を厭わず、地道に生きるのです。また、その十字架を自分のために神が備えられた十字架として担い、また担うことで更に謙遜にさせられ、神の憐れみに生きる者とさせられます。そして、神をますます仰ぎ愛する者へと導かれるのではないでしょうか。

         (完)

                                            2010年5月2日

                       板橋大山教会   上垣 勝

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