冒険しなければイエスが分らなかった


                     ベルン大聖堂のステンドグラス (2)


  
                                              冒険のある人生 (中)
                                              マルコ4章35-41節



                              (3)
  その中で、弟子たちは眠るイエスを呼び起こすのです。迫害の中にあった教会は、自分たちの困窮をイエス・キリストに訴え、祈ることを思い出すのです。もはや自分たちの手ではどうにもならないと悟った時、教会は本当の意味で祈ることを始めたのです。必死になってイエスに訴え、祈ったのです。

  「先生、私たちが溺れてもかまわないのですか」と必死でした。「溺れても」という言葉は、「滅びても、滅亡してもかまわないのですか」という意味です。それ程、教会は緊急事態に置かれたのです。信仰者たちが滅び、教会が滅び、この時代の中ですっかり滅亡してもいいのですか。こういう切羽詰った訴えです。

  皆さん、私たちの祈りはこれほど真剣になっているでしょうか。

  きのう、ある教会の家庭集会でお話しを頼まれて行ってきました。話が終わり懇親の時に、ある婦人が、「自分はず~っと、いつ離婚しようかと考えて来ました」と話し始められて、同居していた大変厳しい舅さん、心が通じないご主人などの話しをされました。「ところが、自分たちが70代になって、やっと夫と祈れるようになり、聖書を読めるようになり、今が人生で最高の時を迎えています」と、おっしゃいました。そうしたら他の方も、「実は自分もずっと離婚を考えて来たんです」と言われて、お2人とも、離婚のことで真剣な祈りをして来られたようでした。

  個人ではありませんが、代々の教会は、教会が滅びてしますという試練の中に置かれることがしばしばあったし、こういう必死な祈りを実際にして来たのです。

  プロテスタント教会は祈りについて語ります。カトリックとか聖公会の方は、祈祷書を呼んで祈るだけで、余り自分の言葉で祈るのはしません。だがプロテスタントは自分の言葉で祈ります。また、祈りとはどういうものかを知っています。しかし教会では祈りはなされますが、個人の生活では、実際にはそう祈っていないように思われます。むろん祈っている方も多いですが、いかがでしょうか。私自身、かつては余り祈っていなかったから、そう言うのです。

  イエス様は密室の祈りを説かれました。自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠れたことを見ておられる神に祈りなさい、とです。

  食前の祈りは、もちろん祈りです。しかし、神様の前に正式に出るには、神と向き合わなければならない。1対1で神に向き合うのです。神と向き合うと、見たくなくても自分とも向き合わねばなりません。そして、心の中を神に打ち明け、神に聞いて頂き、同時に神のみ心を聞く。

  その家庭集会で、神様のみ心はどうすれば分かるんでしょうか、という質問が出ました。神のみ心をどうすれば知れるのでしょうか。その方は、ご主人が癌になって、もう今年だけの命だと医師から宣告され、ただ無我夢中で神様に何とかして下さいと祈っていると言っておられました。

  神のみ心を知るためには、祈ることは不可欠です。しかしそれと共に、み心を知るために聖書を読むことがぜひ必要です。これも不可欠です。そして、聖書を読んで心に止まったものを紙に書きつけ、あるいは心に止めて、繰返しそれを黙想するのです。それを続ける。また、信仰が養われる本を読むのです。今の方の本もいいし、もう亡くなった人の本、5百年前とか、1千年前の人のものを読むのもいいです。それらは私たちの信仰の仲間です。そういう信仰の友を持つことが大事です。そういう人にも聞きながら生きる。するとみ心がだんだん分かってきます。

  プロテスタントの祈りが最近、なぜか貧弱になっています。難しい神学的な言葉を羅列するのが良い訳ではありません。そうでなく、易しい言葉でいい、ただ、深い信仰心を持った、神に深く委ねた、神に信じ切った祈りです。そういう敬虔な祈りは大事です。信仰を深めなければなりません。

  イエス様が、夕闇迫る頃に、わざわざ弟子たちをガリラヤ湖に連れ出されたのは、この祈りの訓練をするためだったのではないでしょうか。

  ここで弟子たちがしているのは、いわば危急の祈りです。しかし危急の中で、祈りは真剣になり、全存在をかけての祈りになります。

  嵐の吹き猛る中で、イエスは枕を高くして眠っておられたと書いていますが、これは、弟子たちがどうなってもいいという事ではありません。そうではなく、この世の嵐がどんなに激しく吹き猛っても、イエスの周りには深い平和が漂っているということです。このような時でも、イエスの存在には普段と変わらぬ落ち着きが支配している。どんな時代にも平和が支配している。そういうことを聖書は告げようとしています。

  そういうイエスを、弟子たちは揺り起こすのです。ですから揺り起こすほどの真剣な祈りです。

  するとイエス様は目を覚まし、船べりに立って、風を叱りつけ、湖に、「黙れ、静まれ」と一喝された。すると風はやみ、すっかり凪になった。するとイエス様は次に、弟子たちに向って、「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか」とおっしゃったのです。

  イエスへの信仰とは、嵐の中でも必ず舟は運ばれていくことへの信頼です。漕ぎ悩んでいるのだが、悩みながらも舟は先に導かれているということです。私たちの努力を超えて、神は信じる者と共に働いて一切を益としてくださるということです。

  農夫が畑に種を播くと、夜昼寝起きしている間に、いつの間にか芽を出し、育ってやがて実を結んでいく。神に預けるという信仰の信頼が大切です。

  弟子たちはイエスの誘いに乗って「向こう岸に渡ろう」としました。イエスに従ったから、弟子たちは自分たちの不信仰を明らかにされました。私たちは不信仰を示されなければならない。自らの罪の深さ、ごまかし、不信頼、そのことを教えられなければなりません。痛いが、それに気づかねばなりません。

  だが不信仰を示される中で、イエス様の大自然をも従わせる主権的な力と共に、イエス・キリストによる罪の赦しも知ることが出来ます。ここで、イエスは弟子たちを叱責しつつ、罪を赦しておられます。

  また、もし冒険を冒さなければ、イエスの主権を新しく発見することもなかったでしょう。

      (つづく)

                                        2010年4月25日

                       板橋大山教会   上垣 勝

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