イエスをお乗せして生きる


      「いまからお話しするのはスイスのみんわよ…」。大聖堂の前でストーリーテリングが始まりました。


  
                                              冒険のある人生 (下)
                                              マルコ4章35-41節


                              (4)
  丁度10年前です。前の教会にいた時、西暦2000年を迎えました。その時、私は、イエスの誕生以来たどって来た2000年間を思い、来るべき次の1000年を思いやりながら、科学の凄まじい発達がなされる中で、かえって人類はこの先一層混迷を深めて、やがて人間とは何か分からなくなる時代が来るかも知れないと思いました。それで、2千年の第一歩を、聖書全巻に聞いて始めようと思い、月曜日から金曜日まで、毎朝6時半から、創世記から始まって1章づつ聖書全巻説教をする会を教会の人たちと始めました。

  「イエスを舟に乗せたまま」とは、私たちが、日々にイエスと触れつつ生きるという事であると思います。イエスを自分の生活の中に乗せたまま生きることです。

  先週の全体懇談会で、私たちの教会は教会の建築を考えて、先ずは新築のための献金のアンケートを取ることになりました。それで、今日教会員の皆さんの週報ボックスに封筒に入れたアンケート用紙が入れられています。

  ただ、私たちはよく考えなければならないのは、教会建築の最も中心的なことは、教会という建物を建てることではないのです。建物を建てるというのに、建物を建てるのが中心的な事ではありません。そうではなくて、教会建築というのは、私たちの信仰を立てるということであり、礼拝を中心とした信仰共同体を形成することです。それが教会を建てる最も手っ取り早い建て方でもあります。

  従って、教会建築は単にどう献金し合うか、お金を出し合うかという事ではありません。もっと重要なことは、例えば建築委員会を作るにしても、建築委員会の最も主要な役割は、単に建物を建てることでなく、礼拝に委員自ら率先して出席して、教会の礼拝共同体を形づくることの重要性を皆に説いてまわり、認識していただくことです。

  教会を建てることは、礼拝を立てることなんです。教会を建てようと言う呼びかけは、礼拝を立てようという呼びかけなのです。そのことができたら、もう建築はほぼ完了したと言っていいのです。

  「向こう岸へ渡ろう」とは、自分の信仰生活の立て直し、礼拝生活の立て直しへの、イエス様からの冒険の呼びかけと言ってよいかも知れません。

  という事は、弟子たちが「イエスを舟に乗せたまま」船出したように、私たちが日々、キリストのみ言葉に接して、私たちがその人生にイエス様をお乗せして、あのエルサレムに入城した、これまで誰もお乗せしたことのないロバの子のようにイエス様をお乗せして、建築の間、それが完成するまで、そしてその後も歩み続けることだと思います。

  そういう建築は、必ず意味を持ってきます。自らが変えられ、人間として成長し、教会が内側から刷新されることになるからです。外側をいくらきれいにしても、内側が一新されなければ何もならないでしょう。教会は建ったが何も中身は変わっていない教会というのはざらにあります。それでいいのでしょうか。

  今日は、「冒険のある人生」というところまで話しが行きませんでした。イエスが連れ出されるのは、愛する人になることへの冒険、私たちの周りに平和を造り出す人になることへの冒険で。聴くに早く、語るに遅い人になることへの挑戦。

  その他、色々ありますが、最後に長崎で被爆したカトリックの信徒であられた永井隆博士の言葉を目にしましたので、それを読んで終わります。「平和を祈る者は、一本の針を隠し持っていてはならぬ。自分がたといのっぴきならぬ羽目に追い込まれた時の自衛のためであるとしても、武器を持っていてはもう平和を祈る資格はない。」こういう者へと新たに船出することが求められているかも知れません。

       (完)

                                       2010年4月25日

                       板橋大山教会   上垣 勝

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