教会の建築について


                        ベルン大聖堂のステンドグラス(1)



                                              岩を土台とする教会 (下)
                                              マタイ7章24-29節


  
                              (2)
  さて、私たちの教会は、新しい年度を迎え、新しい幻をもって進もうとしています。教会の建物がかなり傷んで傾きつつあるので、新築するか、リフォームするかを決めて先に進もうとしています。これまで全体懇談会や報告の時をかなりの回数開きました。

  新築のために3つの建設会社から設計や見積もりを出してもらい模型さえ頂きました。だが教会の体力不足のために、予算面で隔たりが大きくすべて没になりました。現在進行中のものは、耐震補強に重点を置いたリフォーム案です。

  それは、今日のみ言葉からも示されることで、リフォームであっても、願わくは岩を土台とするような教会にしたいということです。それで、今日は「岩を土台とする教会」という題になりました。

  むろん今のままでも、雨ぐらいでは倒れるようなちゃちなものではありませんし、風が吹いてもそうやすやす倒壊するものでもありません。イエス時代のパレスチナでは大地震がなかったのでしょうか。地震の方が風雨より恐いのに、25節には地震のことは出てきません。だが、教会は震度5地震が襲えばどうなるか分かりません。震度6なら教会も牧師館も倒壊するでしょう。むろん人間の診断のことです。実際はどうなるかは分かりません。

  とにかく、今私たちは、私たちと次の世代の人たちが安心して礼拝できる教会と牧師館を造って行きたいと願っています。建物の傷みの実情を知れば、今手当てをしておかなくてはならないのは明らかです。

  ただ建築をする限り、皆が一致して、必ず実現することを確信し、また、他教会の献金や補助を当てにする安易な態度を極力排し、現実によく祈ることによって、私たちが献金を出し合って建てる覚悟をもって取り掛かりたいと思います。

  と言っても、人間的には機が熟しているように見えても、詩編127編に、「主ご自身が建てて下さるのでなければ、家を建てる人の労苦は空しい」とありますから、万一、今、新築や耐震リフォームがまだ神のみ心でないとなれば、したくてもすべきではないでしょう。

  だが、「主ご自身が建てて下さる」と信じ、実際にお建てくださるのであれば、いかに困難であろうとも、私たちは前進すべきでしょう。そのために祈りに祈って、教会建築のために、私も含め、お年を召した方々はこれが人生最後の教会建築でしょうから、むろんその人たちだけではありませんが、献げうる限りを尽くして献げ、教会を建てて行きたいと思います。

  教会建築というのは苦難だけではありません。たとえリフォームでも、教会のかなりの部分が一新するのですから、私たちはまたとない素晴らしい時に出くわしています。これは神さまに感謝しなくちゃあならない。苦難の時でなく、喜びの時です。今日のお天気のように晴れの時です。

  ただイエスご自身、塔を建てようとする時には、十分な費用があるかどうか、腰をすえて計算しない者があるだろうか、と言われました。私たちは、その計算も腰をすえてしなくてはなりません。教会ではよく、そろばん勘定でなくと言われますが、やはりどっしり腰をすえた計算は不可欠です。

                              (3)
  ただ、私たちの目の前には、教会の建物のことがクローズアップされていますが、教会を建てるという事の最も中心的なことは、建物を建てることでなく、自らの信仰を立て、教会の礼拝共同体を立てることです。

  各自の礼拝生活の確立なしに、教会建築はありません。私はこのことを特別強調したいと思います。ですから、具体的な建築と共に、自らの信仰をしっかり立て直していきましょう。それが教会建築に励む中で各自が与えられる最も確かな恵みです。建物は建てばそれで終わりですが、私たちの信仰が立てられるなら、そこから新しいことが必ず始まります。

  岩の上にとありますが、岩はキリストです。その揺るがぬ基盤の上に信仰を築き、人生を立て、教会を建てて行きましょう。先ほど言いましたが、イエスご自身、岩を土台としておられました。その権威は神の国に根ざし、神の国から発しています。

  最後に、イエスはなぜ岩の上に家を建てなさいと言われるのでしょう。むろん雨や風や自然災害にも耐えうるためです。ただこれは比喩です。

  イエスがこうおっしゃるのは、人生にはもっと深刻な事情があるからです。それは、人生は外見とは異なり、脆弱(ぜいじゃく)な、危険な落とし穴や人を陥れる陥穽(かんせい)さえ随所にあるからです。

  その内の最も難しいものの一つは、人生に現われる虚無的な、暗い、ニヒルな思いです。心の見えない所に空いた真っ暗な深い穴。そこから絶えず空気が漏れてしまい、力が抜け、気力がそがれ、人生を嫌にさせられ、投げ出したくさせられ、あるいは破壊的な考えが猛然と立ち上がって来たり、反対に破滅的な考えへと誘われもする。

  虚無的なものとは、ずぶずぶと私たちを沈ませる砂のようなものです。とても危険ですが、それが分かりながら改善するすべがなく、そういう所に住んでいる人たちも多くいます。岩のような磐石な足場でなく、砂浜の波打ち際に立った時のように、ずるずると足元の砂が奪われ、やがて立っておれなくしてしまう闇の力がある。それが人生の随所にある。

  そういう所に、人生の家を堅固に建てることはできない。しっかり巖の上に建てなくちゃあならないのです。

  じゃあ、岩の上に家を建てて生きる生活とは、もうすっかり闇とは無縁になることかというとそうではありません。そうじゃあなくて、闇の只中にあっても、光に向かって進んで行く生活のことです。

  岩の上に建てられてこそ、暗闇の中でも希望の光を灯して、進んで行くことができます。イエスのこれらの言葉はそのような推進力を授けてくれるし、イエス・キリストご自身が私たちの光となって導いてくださるのです。

  そして、先ずイエスの言葉に触れ、岩の上に建てられた私たちは、ニヒルな闇の中にあって生きている人たちにも、ここに確かな岩がある、ここにあなたの暗い闇を埋める光があると指し示すことが出来るでしょう。

  私たちの教会が、また私たち自身がそういう者になって、この地で宣教していきたいのです。そしてその拠点がこの教会であり、牧師館であります。

        (完)

                                      2010年4月18日

                       板橋大山教会   上垣 勝

       ホームページはこちらです;http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/