地上をどう生きる


                        大聖堂から見下ろすベルンの甍(5) 
  
  
  
                                              地上をどう生きる (下)
                                              コロサイ1章1-2節


                              (4)
  もう一箇所は使徒言行録9章です。そこに、パウロ自身の言葉ではありませんが、アナニヤという人物に神様が語られる言葉が記されています。「あの者は、私の名を伝えるために、私が選んだ器である。私の名のためにどんなに苦しまねばならないかを、私は彼に示そう」と語られたというのです。「あの者」とはパウロのことです。

  キリストの名を伝えるために神に選ばれた器。それがパウロでした。だが、その使命を果たすために、「どんなに苦しまねばならないかを、私は彼に示そう」といいます。

  しかし、その苦しみはいやな苦しみでなく、彼にとって喜びの苦しみであり、やりがいのある苦しみ、命を使い、使い尽くして、それを感謝できる苦しみでした。使命とはそういう前向きの積極的な響きをもっていますし、そういう使命を神は彼に与えられました。ですから彼は、普通の人の3倍も、4倍もキリストのために労しました。きっと、そうしないなら、自分は災いであると思ったでしょう。

  長くなりましたが、これが今日の1節で、「神のみ心によって」という言葉で示されていることであり、「キリスト・イエス使徒とされた」という事で書かれている内容です。

                              (5)
  繰返しますが、彼は、使徒とされ、弟子とされたことを心から感謝しました。ですから別の箇所で、「私はキリストの福音を恥としない」と語っています。なぜなら福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる人すべてに救いをもたらす神の力だからですと述べています。

  人間の一番難しい事柄の一つは、自分をコントロールすることでしょう。食欲や癖や色々あります。何をしたらいいかは誰しもほぼ分かっています。だが、体の中に別の欲望があって、それをしない。しないで、つい、してはなら方をしてしまう。また、今しなければならないことを後回ししてしまう。パウロは、「善をなそうとする意志はある。だがそれを実行できない」、「罪の法則のとりこ」にされていると書き、「私は何と惨めな人間なのでしょう」と嘆きました。

  だが、パウロはこの罪のとりこから、キリストに結ばれることによって救い出されましたし、私たちも救い出されると言うのです。それが救いをもたらす神の力、福音であり、この福音を恥としないというのです。

  色んなことを運命論的に考える人があります。自分の短気な性格や、飽きっぽい性格、また色んな癖などでも、自分がこうなったのは誰のせいだ、環境のせいだとして、被害者的に考える姿勢です。前世の因縁とか業(ごう)という考えもそうです。

  運命論の反対は信仰ではないでしょうか。信仰はニヒルな私たちに天から射して来る光を授けます。運命論を超える光です。「信仰とは、この世に存在するどんな得体の知れない力よりも、神の愛は強く、暗闇の犠牲者から光の僕へと私たちを変えることができると、心の底から信じること」(H.ナウエン)だからです。

  イエスは、「からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、あそこに移れと命じても、その通りになる」と言われましたが、信仰は、山のように思われる運命的なものも変えていく力があるのです。

  また、運命論的な考えから信仰へと移っていく時、私たちの心を覆う冷たい暗闇が取り除かれ、これが取り除かれると希望がどんどん湧いてきて、キリストの愛の力によって山をも動かすことへと、変えられて行くからです。

                              (6)
  最後に2節で、「コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ。私たちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように」とありました。

  「キリストに結ばれている」という言葉は、フィリピ書でも度々出て来てそこでお話致しましたので今日は省きます。コロサイ書でも繰り返し出てきます。

  「聖なる者たち」と、「キリストに結ばれている兄弟たち」とは別の人々でなく、同じ人たちです。聖なる人たちというのは、イエスに結ばれているから聖なのです。聖人であるとか、完全な人を言っているわけではありません。

  ぶどうの枝が、ぶどうの木につながれていると、樹液が枝全体にゆきわたり、実をたっぷりと結ばせるでしょう。だが、結ばれていないなら枝は枯れ、切られて焼かれます。だが、結ばれていれば良い実を結びます。「神からの恵みと平和があるように」というのは、その実と言えます。それがコロサイにいる信仰の兄弟たちにあるようにということです。

  パウロは、図抜けた偉大な人間であることをどこでも求めません。ただキリストにあって、低く、真実に生きる兄弟姉妹であることを求めます。

  大事なのは、自分が理解したほんの僅かな福音の真理、それを生きることです。福音をすべて理解してからというのでなく、達した所にしたがって歩み出すことです。

  この間、Aちゃんと館山の海に3人で行きましたら、あっ、Bさんは館山でいらっしゃいましたね、思い出していればそういう目で町をお訪ねすればよかったです、で、Aちゃんが欠けた貝殻ですが、それを拾って大喜びでした。人生で初めてのものに出会ったんでしょう。帰ってからも、貝殻を宝物のようにしていました。子どもたちは、自分が発見したものを喜んで親に見せに来ます。発見した真理を喜び、生きることが、何ものかを発信することになります。

  背伸びの必要はありません。焦ったり、駆り立てられる必要はありません。キリストに結ばれていること、その命に与っていることが大事です。小さくあっていいのです、低くあっていいのです。日々を、福音によって喜びの中に生かされていることが大事です。

    (完)
                                     2010年4月11日

                        板橋大山教会   上垣 勝

       ホームページはこちらです;http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/