金光教から牧師へ


                        大聖堂から見下ろすベルンの甍(4) 
  
  
  
                                              地上をどう生きる (中)
                                              コロサイ1章1-2節


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  さて、ここには何人かの若い方々もおられます。で、自分は何のために生まれたんだろう。自分の生涯の使命は何だろうと悩んだり、考えたりしている方もあるかも知れません。むろん年を取っておられてもそうです。

  使命とは字のごとく、命を使うことです。「あなた方は世の光である」とイエスは言われましたが、あの頃のともし火はローソクかランプの光です。それが光を発するためには自分を燃やさねばなりません。周りに光を照らすには、その分、自分の命をすり減らし短くする。自分のためでなく他のために命を使っていく。これが使命です。

  宇宙飛行士の山崎直子さんもそうですが、奥さんを支えるために仕事を辞めて家事専業になったご主人も使命に生きていると言えるでしょうね。親御さんの世話もなさったとか…。

  ただ、そういう大きな事でなく、お母さんたちは皆、命をすり減らして子育てをしておられます。報いを求めてではありません。私たちもそうして大人になりました。子育てを楽しんでいる方もあるでしょうが、アップアップ言いながらもう泣き出しそうになっている方も多いと思います…。むろん最近は、子どもへの愛情も一つの投資だと、経済的に実利的に考えている方々もあるようですが、オッとドッコイじゃあないですか。

  親は子どもを作ることは出来ても、子どもの魂を作ることは出来ません。親の価値観を押し付けることは出来ません。親子の魂は別のものです。ですから投資と考えている人は、しっぺ返しを食らう可能性があります。自分の子とはいえ、人の魂に対するいかにも浅い考えです。

  命を使う。そのことを感謝する。命を使えたことを感謝する。そこから子育ては考えなければなりません。

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  横道にそれましたが、さて、コロサイの信徒への手紙を書いたパウロも、今日の所で、ちょっと変わった言い方で、自分の使命について触れています。「神のみ心によって、キリスト・イエス使徒とされたパウロ」。これがそうです。

  「神のみ心によって」とは、具体的にはこの手紙に出てきませんが、聖書の別の所に出ています。例えば、ガラテヤ書1章でパウロは、自分はキリストを迫害していた者だった。キリストへの敵対者であり、殺人者であり、高慢な人間であった。同年齢の者たち以上にユダヤ教に熱心に生きていた。

  だが、「私を母の胎内にある時から選び分ち、恵みによって召し出して下さった神が、み子キリストを私に示して」下さり、キリストの使徒、弟子とされたと書いています。

  イエスは、「多く赦された者は多く愛する」と言われました。パウロは多くともいえますが、深く赦されました。敵対者であり、殺人者であり、高慢な人間で、人より3倍も、4倍もキリストに反発した人です。そんな人間がキリストに赦されて、人より3倍も4倍も、深くキリストを愛するようになったのです。

  彼は、ユダヤ教の母から生まれました。ところが、その母の胎内にある時から、既に、神はキリストの弟子として選び分けて下さっていたと記すのです。むろん最初は、そんなことは彼自身にも分からなかったでしょう。しかし、キリストに出会い、ずっと後になって思い返してみると、こう思わずにおれなかった。イエスの愛に触れてそう考えるようになったのです。

  私も、家庭はキリスト教とは無縁でした。祖父母の代まで仏教徒です。小さい頃、仏壇に江戸時代の古い仏像がありました。父が兵庫の山深い田舎から携えてきた彫刻としても価値あるものでした。しかし、母が金光教という天理教と並ぶ江戸末期に始まった新興宗教に入って、そこから、やがて一番上の兄が金光教の先生になるための修行を始めたのです。志半ば、20代後半に結核で早死にしましたが、兄の死によって返って父も金光教になり、価値ある仏像も仏壇も処分して、金光教の立派な神棚が家にやって来て一家がそうなりました。3番目の兄ももう亡くなりましたが、金光教の教会で雅楽を演奏していました。その奥さんは今も琴を弾き、お花やお茶の先生をしています。私はその教会の先生から特に可愛がられました。家が家ですし、高校を出るまで積極的に活動したからです。可愛がられた分、牧師になったのでその方の心は複雑でした。

  ですから、私は金光教の母の胎内で生まれたわけで、今は、その胎内にある時から、牧師になるように、神から選び分たれていたのだと思っています。

  先ほど、親は肉体的に子どもを作ることは出来ても、子どもの魂を作ることは出来ないと言ったのも、こういう背景があるからです。

  誰しも心の最も深い所に、真理への、神への憧れがあります。この憧れは既に神の呼びかけですし、信仰の始まりです。私は金光教では飽き足りませんでした。母が通っていた教会に、人間関係のドロドロしたものが付き纏っているのが嫌でした。ドロドロした人間関係はあっても、真理はないと思えました。金光教の方には申し訳ないのですが、当時私の目にそう映りました。それで、本当の真理を求めて仏教その他に行き、やがてキリスト教にたどり着きました。今は私の信仰の苗床になった金光教の人たちに感謝をしていますし、そこからキリストへと導かれたことは本当によかったと喜んでいます。

  ここには真理の大海が遥か彼方まで無限に広がっているからです。現実の教会からそれが途絶えそうになることがありますが、教会の歴史に遡り、キリストに遡れば、それは決して途絶えることはありません。

  いずれにしろ、パウロは、「神のみ心によってキリストの使徒とされた」と、自己紹介します。「された」と受身形で書いているのは、自分がなろうとしてなったのでなく、キリストによってそうされたと、それが自分に起った決定的なことであったと、心から喜びながら言っているのです。

  使命というのはそういうものでしょう。心からの喜びでなければ、人生を賭けるに価する喜びでなければ使命とは言えないでしょう。

        (つづく)

                                     2010年4月11日

                        板橋大山教会   上垣 勝

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