韓国にある中国人教会
ベルンの日曜日のバザール
主の復活と女性たち (上)
ルカ福音書24章1-12節
2010年4月4日
(序)
東京は、今日桜が満開になりました。朝散歩に出ましたら、石神井川の桜に遠くまで誘われてあわてて帰って来ました。今年はなぜ花冷えがこんなに長く続くのかと思っていたら、4月4日のイースターに合わせて満開にして下さるためだったんですね。
今、歴史のある大教会では85歳、90歳を過ぎた方々を何人も抱えています。私の知る教会でも100人近くおられて、これまで大学の学長をして来られた方や、有名な病院長をして来た方、何とか博士とか、信徒として日本の教会の中でオピニオン・リーダーとして働いた方などもご高齢になり、痴呆が進んだり、デイ・サーヴィスに通ったり、もう昔日の頭脳明晰、威風堂々、論客として名を馳せた颯爽たる姿は見る影もなくなって、ご家族から見て「人格的に痛ましくなってしまった」と言われる方々が増えておられるようです。
それらのお姿を見ると、今、都内は桜が満開ですが、精力的にバリバリと仕事をし、飛ぶ鳥も落とす無敵の不沈空母のような確乎たる態度で周りに発破をかけている人たちも、何年か先にはヨボヨボになり、垂れ流したり、呂律(ろれつ)が廻らず、人のお世話になって最晩年を迎えるのは明らかです。私もそうかも知れません。どんなに今は鼻っ柱が強くても、人生の終わりはまるで人生の初めのような姿で、よちよち歩きし、人のお世話になり、孤独の内に過さねばなりません。
しかしキリストによる復活は、痴呆が混じり、人格的に痛ましくなる私たちの現実の姿に対しても、キリストから与えられる希望の光になります。痴呆だけではありません。復活というのは、死の彼方にも授けられる希望の明日(あした)です。
しかも、キリストによる復活は、死後のことだけではありません。むしろ、今現在に関わる出来事です。
(1)
さて今日の聖書には、イエスの死後3日目、安息日が終ると、待ちかねたように、婦人たちが死体に香料を塗るためにイエスの墓に行きました。ところが墓は空で、遺体は見当たらず、途方に暮れていたと書かれていました。また輝く衣を着た二人の人がそばに現われ、恐れの余り地に顔を伏せたともありました。すると、彼女たちに、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。…ガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」と語った、とありました。
木曜から金曜日にかけて、十字架に吊るされて、死に至るまでのイエスの様子を克明に見た後です。どうして復活を信じることができるでしょうか。
私は少年時代に、同じ村の小学生たちが捨て猫を見つけて来て、それを散々いじめて、最後は川に連れて行って溺れさせるという事がありました。アップアップするのを見て、面白がって棒で突っついたり、石を投げて楽しむのです。本当に残酷でした。そんなことが2、3回ありました。今なら、問題児たちとして呼び出され、児童相談所に連れて行かれるでしょう。新聞にも載るようなことを村の少年たちはしていました。
イエスは、先週申し上げましたように、侮辱に次ぐ侮辱を受けました。紫の着物を着せられ、葦の棒を持たされ、王様万歳と囃(はや)し立ててからかわれ、その棒を取り上げて、茨の冠をかぶせてその棒で叩かれ、何度にもわたって散々侮辱されたあげく、ボロ布のように十字架に吊るされて殺されました。村の少年達になぶり殺しされた子猫のように、です。まさに残酷に尽きます。
最近、韓国に中国人のキリスト教会があるのを知りました。韓国にどうして中国人教会かと思います。それは、戦時中、朝鮮人の若い娘さん達が日本軍の従軍慰安婦として、日本軍が転戦していく所、中国じゅうを連れまわされたのです。そして戦後、母国に帰れば白い目で見られますから、中国に留まり中国人と結婚しました。その子孫が韓国に戻って来て教会を作ったのです。帰国子女たちの教会なのです。
歴史をたどれば、一昔前、私たち日本人が朝鮮の娘さん達をボロボロに扱った残酷この上もない罪の歴史があるわけです。子猫に対する以上の残酷な歴史です。それは、イエスを十字架につけたと同様の罪の歴史とも言えるでしょう。
いずれにせよ、ボロボロにされて捨てられたイエスが、復活するなどということを、誰が想像できるでしょうか。
(つづく)
板橋大山教会 上垣 勝
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