イエスとの絆 (下)

 

                                ベルンのバザールに来た親子 
 
                    エスとの絆(下)
                        フィリピ4章21-23節
  
  
              (3)
「聖なる者たち」とあります。だが神聖な聖人、聖女たちのことではありません。この言葉も、キリストに、神に「結ばれた」人たちのことです。ですから皆さんが聖なる人たちです。神のご用のために取って置かれた人たちの意味もあります。
 
テトス書に、「私たち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意と妬みを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです」とあります。私ははじめてここを読んだ時、これは自分の姿だと思いました。テトスは、私たちのかつての姿を忘れないためにこう書き留めたのでしょう。確かに「かつて」のことを忘れると驕り高ぶります。
 
しかしテトスは続けて、「しかし、私たちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現われた時に、神は、私たちが行なった義の業によってではなく、ご自分の憐れみによって、私たちを救って下さいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造り変える洗い(洗礼)を通して実現したのです」と書いています。
 
「聖なる者たち」と言っても、もしキリストとの糸が切れれば再び罪が噴火するかも知れません。そういう弱さを私たちは持っています。神がいまさなければ、その人生は再び荒れ果て、世の人以上に虚無的な素行にならないとも限りません。しかし、私たちが行なった義の業によってではなく、神はご自分の憐れみによって、私たちを救って下さいましたとありました。ただ一方的な神の慈しみを受け、キリストの憐れみによって、救って下さいました。私たちでなく、神が働いて下さり、神との関係の一点を与えられ、その憐れみを受けて、自暴自棄を免れ、心静められたのです。
 
「聖なる者たち」というのは、自らの過去と現在を見て、神の憐れみに真実に感謝する者たちです。
 
Tさんが91歳になられ、暫く前から足が弱って立てないので、家庭で生活ができなくなられました。ベッドで寝る生活が多くなると、あれだけ毅然としておられた方ですが、先週お訪ねしましたら私が分からなくなっておられました。
 
だが、そんな風になっておられましたのに、暫くお話していますと、私に、「信仰を持って良かったです。キリストを信じて正解でした」と、はっきりおっしゃいました。これはどんな言葉よりも確かな、聖なる者の信仰告白ではないでしょうか。
 
どちらか知りませんが第何代かの将軍の墓がある格式あるお寺のお嬢さんでしたが、40歳を過ぎて信仰に導かれ、聖書を百回通読なさって、今91歳になり、痴呆も入る中で「信仰をもって良かった。正解でした」と私の顔を見ておっしゃったのには感動しました。
 
ご家族に色々お世話になっておられます。だがお世話になりっぱなしでも、神さまに愛された「聖なる者」でいらっしゃることに変わりありません。
 
             (4)
最後にパウロは、「私と一緒にいる兄弟たちも、あなたがたによろしくと言っています」と述べ、「全ての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちからよろしくとのことです」と書きました。
 
投獄されたパウロを恥じず、返って彼を熱く慕い、彼と一緒に居つづけた兄弟たちがあったのは驚くべきことです。彼らは獄中のパウロを誇りとしたのでしょう。
 
パウロは、なぜ、誰からよろしく、誰からよろしくと色んな人たちを上げて、フィリピの人たちに最後の挨拶をしているのでしょう。
 
彼の胸には、私たちは皆、場所は遠く離れて住んでいても、キリストを頭(かしら)とする一つの群れだという強い認識があったからです。個々の町には小さな群れがあるだけだが、世界のあちこちに、天に国籍を持ち、主を仰ぐ群れがあることを忘れてはならない。キリスト者たちの連帯に。キリストを頭として、世界に広がる、目に見えない、一つなる教会に目を向けてもらいたかったからでしょう。
 
そして、既に皇帝の家にもキリストを信じる者たちが生まれていることを知らせます。
 
パウロは手紙を閉じるに当たって、暗い現実社会でなく、暗い現実社会にあっても希望の光が現存することに目を向けさせているのです。闇にキリストの光が差していることに目を向けて欲しいのです。それで皇帝の家の人たちもフィリピのキリスト者たちと堅く連帯していることを、喜びをもって知らせるのです。
 
私たちは現実社会の問題点、解決しなければならない山積みの難題を幾つも持っています。だが、それに目を向け過ぎて、暗い世界観で心を満たされていないでしょうか。新聞を見ると、問題点がこれでもかこれでもかと書き立てられて、朝からうんざりすることがあります。それに振り回されて、私たちの人生自体を暗くしてはなりません。
 
パウロは処刑の気配すらある獄中から、希望の徴(しるし)を指し示すのです。私たちの周りでも、希望を指し示す人が極めて少ない社会にあって、これは何と勇気あることでしょう。ですから、私たちは彼と共に、希望はどこにあるかを努めて指し示す人になりたいと思います。社会で、職場で、家庭で希望を作り出し、希望を指し示す人になる。
 
現代の、「キリスト・イエスに結ばれている全ての聖なる者たち」の最も大事な使命は、ここにあるのではないでしょうか。小さな希望でもいい、その兆しを見つけ、それを指し示す人。パウロはそれをフィリピ書を閉じるにあたってしているのです。
 
    (完)
 
                           板橋大山教会   上垣 勝
 
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