宣教に関わる人たち (下)

                            

         トゥーンの市役所は1585年に建ったものでした。窓の上の数字をご覧下さい。
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                                 宣教に関わる人たち (下)
                               フィリピ4章15-20節
 
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フィリピ教会の中には、パウロのように伝道したい、望むらくは世界宣教に自分も尽くしたい、世界にでなくても伝道生活へと献身していきたいと望んでいた人もあったでしょう。だが、家族があり、他に事情があり、したくても出来ない。そこで、パウロを支援することで自分らも宣教の業に加わっていくのです。パウロは、フィリピの人たちのそのような果たせない思いをこの支援を通して重く、貴く受け止めるのです。
 
支援の額は分かりません。だが、たとえ僅かなものしか献げられなくても、祈って、祈って、祈って、熱く祈って捧げられているのなら、それでヨシではないでしょうか。魂の熱こそ貴いのです。
 
献金は額によりません。よく祈り、よく祈り、よく祈って、心を尽くして献げられるかどうかです。献げる者のこの主体的な魂の熱。熱く心燃やして献げられる態度です。熱い思いがなく、献げるものも少なくていいという事ではありません。み子をも惜しまないで私を愛して下さった方に、どう報いるかです。
 
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最後に20節で、パウロは、父なる神に栄光があるように祈り、アーメンと唱えています。このアーメンは、本当にそうです、岩のように確かにそう思うという意味です。力強く断固として心からそう信じますという事です。祈りや讃美歌でアーメンというのは、そういう意味です。
 
パウロの生涯は、断固として神への栄光のためにありました。神に、「栄光が世々限りなくありますように。」そこに人生の最終的な目標がありました。
 
彼は、自分をキリストに差し出しています。伝道途中の突然の投獄。だがそれをただ嘆くのでなく、愚痴るのでなく、全てをキリストに差し出して行きます。捕縛された時は、荒々しく取り扱われたでしょう。精根尽き果てるほど疲れ切ったでしょう。しかしその体さえもキリストに差し出していきます。
 
ブラザー・ロジェさんが、「どんな状況の中にも、信頼の内に一歩を踏み出すのです。どんな灰色な日々にも、キリストが下さる賜物は喜び、軽快さです。嘆き続けるのでなく、あらゆる瞬間に全てをキリストに差し出すのです」と書いています。何と力強い言葉でしょう。パウロは獄中でそういうことをしているのです。
 
人は誰しも自分の生きる足場を持たなければなりません。自分の内面に力強く語りかけ、励まし、勇気を与える言葉。自分を深い所から支えてくれる力強い言葉。生涯にわたって繰返し帰って来れる、自分の中核となるものを欠いて、自分の内面をどう育てることができるでしょうか。それなしには、何をするにしても真の喜びにつながりません。自分はこんな所で何をしているのかという思いがつきまといます。神を失っている限り誰しもそうです。
 
牧師であっても、自分の神学の構築をどうするかと言うようなことでなく、内面を統合するものを与えられることが大事です。生涯、自分の根拠になり、いつでも戻って来れる言葉です。パウロの場合、イエスの十字架の言葉、十字架の出来事が語っている言葉であり、復活の出来事が語っている言葉でした。彼はそれに出合ったから、地の果てまで、世界の人たちとそれを分かち合おうとしたのです。
 
彼の世界伝道の動機はそこにあります。そして、彼の世界伝道は今、神に栄光があるようにという一点に集約される中、伝道の只中で突然獄中に入れられたことすら、神の栄光を表わす機会として、苦悩の中でも嘆き続けるのでなく、絶望せず、獄中生活を通して神の栄光を現わしていくのです。
 
この手紙は、喜びの手紙と言われるものだとお話しして来ました。それ程喜びで溢れています。パウロはフィリピの信徒に宛てて獄中で手紙を書きながら、自分の中核となるもの、キリストとの出会いのゆえに、そういう日常生活を送ることができたのです。
 
私たちも、命の中核となるものを持つなら、家庭や職場や学校、その他での日常生活も、神の栄光を表現する喜ばしい場になるに違いありません。
 
若い人もお年寄りもいるある場所で、こんなことが話題になりました。あるお年寄りの男性が言ったのですが、若い頃は元気に活躍した方ですが、「もう自分は高齢になって、テレビを見ながら毎日眠りこけています。もうヨレヨレになってしまって、こんなヨレヨレの者が神の栄光をどうしたら表せるでしょうか」と言われました。
 
しかし、80歳の半ばに達しても、この方は毎日神の前に静まる時を持っておられます。たとえ高齢になり、テレビの前で眠りこける時間が多くなっても、日毎に神様の前に出てみ言葉に触れ、身近な者や社会のために祈り、神の前に静まってみ心を思い巡らす。それは大いに神の栄光を現わすことではないでしょうか。
 
ルカ2章に、ファヌエルの娘でアンナという84歳の婦人が出て来ます。彼女は断食したり、祈ったりして、夜の昼も神に仕えていたと書かれています。高齢になってもそういう精進の中に生きていたゆえに、幼子イエスが両親に連れられてエルサレム神殿に入ってきた時に、真っ先に、これこそ全世界の人が待ち望んでいる救い主だと語ることができたのでしょう。
 
歳をとり、頭も体も衰え、肉体は思うように動かなくても、このような主を仰ぐあり方は、神様の宣教の業に関わることと言えるのではないでしょうか。
 
      (完)                  2010年3月21日
 
                           板橋大山教会   上垣 勝
 
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